ONEDOG:壁打翻訳手習帳

手習い故、至らぬところは御容赦。更新は、Twitterアカウント @0ned0g でお知らせします。

Googleとイスラエル、月へ向かうか

非営利スタートアップ企業が、Google Lunar X Prize(GLXP)の最有力候補として名乗りをあげた

f:id:onedog:20151010162135j:plain

 

NASAはアポロ時代の魔法を取り戻し、再び月面に宇宙船を送り込まないのかと、待ちくたびれた人も多いだろう。そんな人々に朗報である。Googleの助力も受け、イスラエルが月への関心を示そうとしている。

 

本日エルサレムでの午後12時45分、イスラエル大統領ルーベン・リブリンは、Googleおよびイスラエルの非営利宇宙開発企業SpaveILの代表と記者会見をおこない、2017年末までに民間宇宙船を月面に送り込む計画を、SpaceILがGLXPの16参加者のなかで初めて正式決定したことを発表した。

2000万ドルの賞金を獲得する勝者となるためには、(出来るだけ無傷で)着地するばかりでなく、少なくとも月面で500メートル移動し、ビデオと高解像度の写真を地球に転送しなければならない。2着には500万ドルが与えられる。月面で一夜(地球での14日間に相当)を過ごした場合と、アポロの着地点訪問を果たした場合には、さらに総額500万ドルのボーナスが与えられる。

 

このコンテストの最終予選に残るためには、証明を受けた打ち上げ契約を2016年12月31日までに締結しなければならない。SpaceILは、米国の宇宙サービス会社、Spaceflight Industries社と契約することで、この条件をクリアした。Spaceflight Industries社は、スペースX社のファルコン9ロケットを最近購入しており、月面探査機を多数の積み荷の一つとして打ち上げる。

f:id:onedog:20151010162200j:plain

 

今回の発表における声明で、SpaceILのエラン・プリブマンCEOは、こう述べている。「月面に探査機を軟着陸させることに成功した国は、米国、旧ソ連、中国の3ヶ国しかない。今、この限られたリストに、小国であるイスラエルが名を連ねる可能性がさらにいっそう高まったのである」

 

SpaceILの月面探査機は、およそ皿洗い機くらいの大きさをした三本足のマシンである。このマシンには車輪がないので、必須条件として課されている500メートルの移動は困難そうだが、Googleは宇宙船は走行しなければいけないとは定めていない。その代わりに、SpaceILは、降下用エンジンの燃料を充分残して、着地後に目的地まで飛んでいき、0.5キロメートルの移動距離を達成しようとしている。移動形式と宇宙船自体を両方シンプルにできることは、月に初めて挑むSpaceILにとっては大きな利点になるが、2000万ドルを手にするまでにはまだ長い道のりが待ち受けている。

 

f:id:onedog:20151010162214j:plain

 

1960年代にアメリカが明らかにしたように、月への着陸は容易ではない。月面に到達した最初のアメリカの宇宙船は、1964年7月のレンジャー7号だったが、それはその前にレンジャー1,2,3,4,5,6号がすべて失敗した後のことだった。さらに、これらのレンジャー号は、高速カメラを炎上させながらの自殺的な飛び込みとなるハード・ランディングを試みていた。サーベイヤー1号が嵐の海に1966年に到着するまで、NASAは軟着陸を果たせなかった。(SpaceILにとってはいい話だが、サーベイヤー1号は着陸時に跳ねている。500メートルも跳ねたわけではないが)

 

f:id:onedog:20151010162231j:plain

 

人類最初の月着陸点の近くにたどりつくことも簡単ではない。時間に迫られているなら、尚更だ。発射の延期、予定を上回るコスト超過、ハードウェアの故障、軌道に乗せることができなくなった加速エンジン。これらはすべて、この6月に国際宇宙ステーションに向かう無人輸送ロケットが離陸のたった2分半後に爆発したとき、SpaceIL自身が身をもって知ったことだ。

 

おそらく、SpaceILは資金的にはかなり余裕があるだろう。同社の筆頭出資者であり資金調達者となったのは、カーン財団とミリアム・アンド・シェルドン・G・アデルソン財団である。シェルドン・アデルソンはラスヴェガスのカジノの大立者だが、むしろ、共和党大統領候補達の資金貸し付け元として良く知られている。いまだ、宇宙に行くには、大統領選よりもさらに金がかかる。どんな資金源でもすぐに尽きてしまうだろう。

 

f:id:onedog:20151010162246j:plain

 

さらに、SpaceILが最初にゲートをくぐったからといって、道が開けているわけではない。他の15の参加者も、打ち上げの切符を手にするまで1年以上の猶予がある。しかしながら、他の参加者が誰も打ち上げレースに加われなくなっても、SpaceILには別の競争が待ち受けている。

 

GoogleのXPrizeシニア・ディレクター、チャンダ・ゴンザレスはこう語る。「最悪のシナリオは、参加者が1つになってしまっても、レースが続く場合です。参加者は時間に追われながら開発を進めていますが、資金にも追われています」

 

f:id:onedog:20151010162321j:plain

 

XPrizeプログラムにおいて、Googleは再考すべきだと言われている点として、6つのアポロ着陸点近くへの接近があげられるだろう。再考の時間は充分にある。この6つの着陸点を、米国国家歴史登録財として保護しようという動きや、UNESCOの世界遺産に登録しようという動きもある。通常の国際的合意に到達することが難しくとも、別のやり方もあるはずだ。

 

NASAは、月を訪れるものに対して、これまですべての宇宙船到達点を中心とする半径0.5kmへの立ち入り、および有人と無人を問わず軟着陸がおこなわれた地点を中心とする半径2キロメートルへの立ち入りを控えることを求めており、Googleもこれを順守することを了承している。しかし、宇宙旅行は射撃ではないし、操縦をする宇宙飛行士にとっても、着陸地点は大まかなものにしかすぎない。SpaceILのような初心者が、ニール・アームストロングの立てた旗を着陸過程でへし折る失敗をおこすリスクなしにアポロ着陸点の半径500メートル以内に着陸できると考えているなら、それはあまりに傲慢というものだろう。そのような可能性は完全に排除して、この点に関する賞金は取り下げるというのが賢明だろう。

 

Googleがそうしても、このコンテストの価値は些かも失われるものではない。勝者への配当は減るだろうが、技術的にも想像への刺激という面でも良いことずくめである。もし、誰かが本当にやり遂げればの話ではあるが。

 

f:id:onedog:20151010162332j:plain

 

 Googleの無邪気な大騒ぎが、したたかなイスラエル国威発揚に利用されてしまうという構図でしょうか。それに比べると、戦略的な慈善活動に取り組むビル・ゲイツや、1ドルCEOの一方で慈善活動を表立ってすることは少なかったスティーブ・ジョブズは、見識のある姿勢と言えるのかもしれません。

実力はもとより機知でも名を馳せたヤンキースの名手、ヨギ・ベラ没(90歳)

f:id:onedog:20151003045117j:plain

 

ヨギ・ベラが火曜日に亡くなった。野球史上最高の人物であり捕手であった彼は、選手としてはヤンキースの中心選手として10度の優勝を果たし、監督としてはヤンキースとメッツを率いてワールドシリーズに進出した。しかし、それ以上に、彼はぎこちなくも愛嬌のある存在として広く知られ、彼から漫画の登場人物が着想され、ヨギイズムとして知られる意図せざる機知に満ちた風刺の尽きることのない源泉となっていた。90歳であった。

 

ヤンキースニュージャージー州リトルフォールズ市のヨギ・ベラ博物館&学習センターは彼の死去を発表した。2012年にウェスト・コールドウェルの近くの介護施設に移るまで、ベラは長年モントクレア近郊で暮らしていた。

 

1949年、ベラのヤンキースでのキャリア初期に、彼のマネージャー、キャセー・ステンジェルはスポーティング・ニュースのインタビューで彼のことをこんな風に評している。「ベラは、大変傑出した能力を持つ大変変わった人物だ」

 

実際その通りだったし、彼はそれを身をもって示していた。彼は単にヨギとして一般に知られていたが、おそらくこれはスポーツ界ではベーブの次によく知られたニックネームだったろう。実際のベラは必ずしもそうではなかったが、しばしばヒーローには似つかわしくないというように描かれた。15年連続オールスターゲーム出場選手だというのに、決まって実力は過小評価されていた。立派な体格で人好きのする顔だったが、外見はしばしば見くびられた。成功したリーダーどころか優勝請負人だったが、彼の知性は、あからさまに愚弄されないまでもからかいの的にされた。

 

欠けたものがあると見なされていたにもかかわらず、グラウンドで勝ってはまた勝ちまくったことこそが、彼の人気の理由だった。いささかナンセンスでありながら賢人風でもある彼の有名な発言の数々も、真偽の程はともかく、人気を博した。

 

かつて彼は自身のマネージャーとしての戦略を説明するために、「じっと見ていれば、いろいろ観察できる」と述べたと言われている。

 

スラッガーだったフランク・ロビンソンのバッティング・スタンスを真似する若い選手に、彼は「彼の真似ができなければ、真似するな」と忠告した。

 

自宅への道順を教えようとして、彼は「分かれ道に来たら、曲がれ」と言った。どの道を選んでも、曲がれば、その道の行き先にはたどりつく。

 

人気のあるレストランについて彼は、「もう誰もあそこには行かないよ。混みすぎている」と語った。

 

こうした彼のものとされる多くの発言を実際にベラが言ったのか、彼が最初に言ったのか、伝えられるとおりに言ったのかといったことについては、長い間議論されてきた。1998年にベラ自身も「ヨギ・ブック 言ったことすべてを言ったわけじゃない!」と題した本を出版している。だが、ヨギイズムは、間が抜けているが哲学っぽく、気まぐれだが地に足が付いているという、この男の特徴的な人物像を示している。

 

f:id:onedog:20151003044425j:plain

 

ベラのヨギイズムは数々の広告でも活用され、その中にはプッスン・ブーツのキャットフードとミラーのライトビールもあるが、おそらく一番有名なのはユーフーのチョコレートドリンクだろう。ユーフー(Yoo-Hoo)にはハイフンが入っているかと聞かれたベラはこう答えたと言われる。「いえ、奥さん、炭酸すら入っていませんよ」

 

f:id:onedog:20151003044454j:plain

 

ヨギイズムそのものではないとしても、1958年に登場した気さくなアニメキャラクターのヨギ・ベアは、ベラの名前からきているものだろう。

 

f:id:onedog:20151003044405p:plain

 

見事な選手成績

 

ヨギ・ベラのキャラクターは、野球殿堂入りした選手としての彼を覆い隠し、彼がいかに傑出したアスリートであったかということを目立たなくさせているかもしれない。彼は、ストライクではなくともバットを振り、とにかく仕留める悪球打ちとして知られていた。チャンスにも強く、ヤンキースの圧倒的な最強時代にあって、もっとも息長く安定した成果を残した選手だった。


さらにキャッチャーとして、彼は守備の要を務めた。(指名打者制度が1973年にアメリカン・リーグに導入される前だったので、ホームベースの後ろに座り込んであれこれ仕事をするのに一息入れるために、時々外野を守ったこともある)

 

彼もまたその抜け目なさと才能をしばしば過小評価されているが、野球殿堂入りを果たしているステンゲル監督も、ベラの才能を認めていた。まだ若い選手だった頃にも、ベラを自分の助監督と呼び、ミッキー・カクレーン、ギャビー・ハートネット、ビル・ディッキーといった往年の名捕手と並べ称した。「調べておけばよかったんだ」というのが彼のキャッチフレーズだったが、実際、記録はベラが野球史上有数の偉大な捕手だったことを示しているし、最高の捕手だという人もいる。

 

f:id:onedog:20151003045806j:plain

 

ベラの生涯通算打率2割8分5厘はヤンキースの先輩捕手ディッキーの3割1分3厘には及ばないが、通算本塁打(313本)と生涯打点(1430)ではベラが勝っている。投手たちからも彼の洞察力のある配球は賞賛されたが、アメリカンリーグの最多捕殺も5回達成している。1957年から1959年にかけては捕手として148試合連続無失策を成し遂げたが、これは当時のメジャーリーグ記録だった。

 

だが、彼も最初から守備の天才だったわけではない。ベラは、ディッキーが「彼の経験を仕込んでくれたんだ」と説明している。

 

守備面に関しては、近年最高の強打の捕手マイク・ピアッザをおそらく確かに凌いでいたろう。攻撃面では、三振の数を別にすれば、ビッグ・レッド・マシーンとして勇名を馳せた1970年代のシンシナティ・レッズジョニー・ベンチはベラに匹敵する。だが、ベラは19シーズンの8300打席でたった414三振しかしなかった。この数字はパワーヒッターとしては驚くべき少なさである。

 

カールトン・フィスクゲーリー・カーターイバン・ロドリゲスをはじめとする他の捕手も、偉大な捕手についての議論では考慮に値するだろうが、攻撃面と守備面の両方でベラを明らかに上回る選手はいない。同時代にブルックリン・ドジャーズで活躍し、交通事故でキャリアを終えるまでにワールドシリーズで6度顔を合わせたライバル、ロイ・キャンパネラだけが同じ3回のMVP受賞という点でベラに肩を並べる。1950年には、MVPこそ同僚のフィル・リズートに譲ったものの、打率3割2分2厘、本塁打28本、124打点とこの年の捕手の中でも抜群のシーズン成績を残している。

 

決定的な瞬間

 

ベラのキャリアは語り草になったエピソードで彩られている。1947年の対ドジャースワールドシリーズでは、第三戦にシリーズ史上初めての代打ホームランを放ち、第四戦ではマスクを被り、あわやシリーズ史上初のノーヒットノーランという所までいきながら、痛恨の敗戦を喫している。9回二死ながらも四球で歩いた2人のランナーを背負った先発投手ビル・ベヴンスは、クッキー・ラバゲットに走者一掃の二塁打を喫し、試合を失ったのだった。

 

f:id:onedog:20151003044559j:plain

 

1951年シーズンの9月、ボストン・レッド・ソックス戦、アリー・レイノルズが再びノーヒット・ノーランに王手をかけた試合で、ベラは野球史上最も有名なエラーの一つをしでかした。9回二死でテッド・ウィリアムスが本塁とヤンキースのダグアウトの中間にファウルフライを打ち上げた。試合は終わったと思われた。それはレイノルズのシーズン2度目のノーヒットであり、アメリカンリーグの投手としては初の快挙となるはずだった。しかし、ボールは落ちてくるにつれ、突風に捕まった。ベラは必死に背走したが、ボールは彼のミットをこぼれ、彼は大の字に横たわった。

 

だが、あろうことか、次の投球でもウィリアムスは同じようなフライを打ち上げ、今度はベラもしっかり捕球したのだった。

 

f:id:onedog:20151003044621j:plain

 

1955年の対ドジャースワールドシリーズ初戦、ヤンキースは6対4でリードしていたが、8回の表にドジャースジャッキー・ロビンソンが本盗した。球審のビル・サマーズはセーフと判定したが、ベラは激怒し、サマーズに身振りで食って掛かり、グラウンドで癇癪を爆発させんばかりの形相をみせた。この試合には勝ったものの、ヤンキースはシリーズでは敗れた。それは、ベラ在籍中のヤンキースに対するブルックリン・ドジャース唯一の勝利だった。しかし、ベラはこのときのことを決して忘れなかった。50年以上後、ベラはそのときの写真に「大統領閣下、彼はアウトです」とサインして、オバマ大統領に贈ったのだった。

 

f:id:onedog:20151003044643j:plain

 

f:id:onedog:20151003044706j:plain

 

1956年のワールドシリーズは再びドジャースが相手だったが、ここでもベラは忘れられない写真の中心にいる。この歓喜の写真で、デール・ミッチェルを三振に打ち取り第5戦に決着をつけたドン・ラーソンの腕に、ベラは飛び込んでいる。ワールドシリーズの歴史上、唯一の完全試合(そして唯一のノーヒット・ノーラン)が達成された瞬間だった。

 

試合後ロッカーに報道陣が詰めかけたとき、ベラは彼らにいたずらっぽく、「それで、何が新しいのかな」と応じてみせた。

 

f:id:onedog:20151003044728j:plain

 

歴史的な瞬間や個人的な記録もさることながら、ベラのキャリアが傑出しているのは、彼がいかに勝ちまくったかということだ。1946年から1985年までに、選手、コーチ、監督として、ベラはワールドシリーズになんと21回も出場した。最初はフィル・リズ—トやジョー・ディマジオと、その後はホイットニー・フォードやミッキー・マントルと一緒に強力なヤンキースでプレイし、ベラはワールドシリーズ優勝チームに、1947、49、50、51、52、53、56、58年と名を連ねたのだった。1961、62年には、控え捕手兼外野手として、チームの優勝に貢献している。(1955、57、60、63年には、ワールドシリーズに出場するも敗れている)

 

合計すると、彼の在籍時にヤンキースアメリカン・リーグのペナントを17年間で14回獲得している。彼はいまだに、ワールドシリーズの出場試合数、捕手としての出場試合数、安打数、二塁打数の記録保持者である。

 

比肩する者なき優勝回数

 

f:id:onedog:20151003051557j:plain

 

ローレンス・ピーター・ベラは、1925年5月12日にザ・ヒルとして知られるセントルイスのイタリア人居住地で生まれた。少年時代の友人ジョー・ガレージオラもこの地で野球人生をスタートした。ベラは五人兄弟の四男だった。父のピエトロは建設労働者や煉瓦職人として働いており、母のパウリーナは、北イタリア・ミラノ近くの村、マルヴァリオ出身の移民だった。(大人になってから祖先の地を訪れたベラは、スカラ座で「トスカ」の公演を聴き、「いいじゃないか、音楽まで素晴らしい」と言ったという)

 

少年時代には、母親の発音通り、ラリーあるいはローディーと呼ばれていた。2009年に出版されたアレン・バーラによる伝記、「ヨギ・ベラ、永遠のヤンキー」にも彼のあだ名の由来が詳しく述べられている。十代初めのある日、ラリーは友達と映画を見に行き、インドへの観光映画を見ていると、ヒンズーのヨガ行者が足を組んで画面に現れた。友人の一人が、その行者の姿勢は、グラウンドで打席を待っているベラの格好にまさしくそっくりなことに気がついた。その日から、彼はヨギ・ベラとなった。

 

f:id:onedog:20151003051836j:plain

 

運動には熱心だったが学業には無関心だったので、ベラは8年生で学校をドロップアウトした。そして、(10代のアマチュア少年野球リーグである)アメリカン・レギオン・ボールでプレイし、いくつかの仕事をした。10代で、ベラとガレージオラはセントルイス・カージナルズのトライアウトに参加し、カージナルズのゼネラル・マネージャー、ブランチ・リッキーから共に契約を提示された。しかし、ガレージオラには500ドルのボーナスが提示されたのに、ベラへのボーナスは250ドルだったので、彼は契約しなかった。(これは、来たるべき契約交渉の前ぶれだった。1961年には、ベラの年俸は当時の選手としてかなりの額である6万5千ドルに達していたが、契約交渉にかけては抜け目のなさをみせ、ヤンキースのしみったれのジェネラル・マネージャー、ジョージ・ウェイスからほとんど毎回譲歩を引き出していた)

 

一方で、後にボルチモアに移りオリオールズとなるセントルイス・ブラウンズもベラと契約したがっていたが、ボーナスは何も払う気がなかった。1942年のワールドシリーズでカージナルズがヤンキースを破った翌日、ヤンキースのコーチがベラの両親の家にやってきて、マイナーリーグ契約を示すと共に、こっそりと500ドルを手渡した。

 

ファンの人気者

 

ベラのプロ野球人生は、1943年にピエモンテリーグ・クラスBのノーフォーク・ターズで始まった。111試合で打率2割5分3厘、捕手としてリーグ最小のエラーだったが、二連戦で12安打23得点を挙げたこともあったという。将来が期待できるスタートだったが、第二次大戦で彼のキャリアは中断した。ベラは海軍に入隊した。ノルマンジー侵攻に参加し、2ヶ月後、マルセイユを襲う連合軍のドラゴン作戦において銃弾で負傷し、パープル・ハート勲章を授与された。

 

f:id:onedog:20151003052042j:plain

 

除隊後、1946年にニューアーク・ベアーズに加わり、その後、ヤンキースの最上位のファームチームに移動した。彼は外野手と捕手としてプレイし、77試合で打率3割1分4厘、15本塁打、59打点をあげたが、彼の守備はまだ磨かれていなかった。本塁から二塁に送球しようとして、審判を殴ってしまったこともあった。しかし、9月にヤンキースはベラを呼び寄せた。メジャー最初の試合で、ベラはホームランを含む2安打を放った。

 

ヤンキースの一員として、ベラはファンの人気を集めた。その理由は、まず、二年目の1948年のフルシーズンには打率3割5厘、98打点を挙げたプレイの素晴らしさ、そして、彼の謙虚さと正直さだった。1947年、セントルイスのスポーツマン・パークで表彰を受けた際、ベラは地元の観衆に向かって緊張の面持ちでこう述べた。「今宵私を表彰しなければならなくなった皆様に感謝の意を表するものであります」

 

ベラはスポーツ紙の記者にとっても格好の取材対象だったが、彼らが描くベラの人物像といえば、野球馬鹿で、滑稽な英語をしゃべり、文字といえば漫画と映画はなんとかという猿のような男だった。こうして、田舎者の成功者というヨギの風刺画が生まれた。

 

1949年7月のライフ誌にはこう書かれている。「文法や正書法は言うに及ばず、文学や科学のような不必要で取るに足らないことで頭を悩ませている人々に対して、今でも彼は哀れみの念しかおぼえない」

 

「鉱夫の友」誌はこう言い切っている。「考古学者しか気に入りそうもない肉体を持つ185ポンドのベラをもってすれば、ネアンデルタール大学同窓会のメンバーに仲間入りすることは簡単だろう」

 

ベラは走りながらぶれる癖があった。それが見苦しければ、注意を受けたかもしれないが、捕手をするには関係なかった。「顔の善し悪しでヒットを打った奴なんて見たことないね」と彼は言ったと伝えられている。しかし、記者が彼のガールフレンド、カルメン・ショートについて、ベラは彼女と結婚するには不釣り合いだと言ったときには、「俺だって人間だろう?」と答えたと「鉱夫の友」誌は伝えている。

 

ベラはこの揶揄を乗り越えた。1949年にショートと結婚し、2014年に彼女が亡くなるまで添い遂げた。彼の後には、三人の息子が残された。ボルチモア・コルツのプロ・フットボール選手となったティム、ヤンキースピッツバーグ・パイレーツヒューストン・アストロズ内野手として活躍したデール、そしてローレンス・ジュニアだ。孫とひ孫も合計11人いる。

 

f:id:onedog:20151003044813j:plain

f:id:onedog:20151003044839g:plain

 

 

確かに、ベラへの評価も年月と共に変わった。

 

1963年10月のニューヨーク・タイムスでロバート・リサイティーはこう書いている。「ベラは、彼が抜け目なく機を逃さない知的な人物であることを示す証拠がグラウンドの内外にいくらでもあるにもかかわらず、人々が彼を親しみやすい道化であると思うままにしておいた。というのも、おかげですぐに人々に受け入れられたからだ」

 

監督としての成功

 

ベラがヤンキースの選手として引退を決意すると、即、ヤンキースは彼を監督に指名した。監督としても彼は成功したが、現役の時のようにいつも勝てたわけではなかったし、ドラマや失望と無縁でいることも出来なかった。事実、スタートはまずかった。1964年には高齢化していたヤンキースは、夏の間疲れ切ったような試合が続き、8月半ばにはシカゴで首位のホワイトソックスに4連敗したが、ここでベラの生涯でももっとも変人らしいエピソードが起こる。

 

チームがオヘア空港に向かうバスの中で、控えの内野手フィル・リンツが「メリーさんの羊」をハーモニカで吹き始めた。連敗で機嫌の悪かったベラはリンツにやめるように言ったが、リンツはやめなかった。(別のバージョンでは、リンツミッキー・マントルにベラが何と言ったのか尋ねたところ、マントルが「もっと大きな音で吹け」と言ったことになっている。)突然ハーモニカが宙に舞った。ベラがリンツの手をひっぱたいたとも、リンツがベラに投げつけたとも言われている。(バスに同乗していた選手によって、諸説様々である)

 

f:id:onedog:20151003052701g:plain

 

この出来事を取り上げた新聞記事は、ベラがチームの統率を失ったかのように書き立てた。しかし、9月にヤンキースホワイトソックスに追いつき追い越しペナントを勝ち取った。にもかかわらず、セントルイス・カージナルズにワールドシリーズ第7戦で敗れ、ジェネラル・マネージャーのラルフ・ホークはベラを解雇した。奇妙なことに、ホークはベラの後釜にカージナルズの監督ジョニー・キーンを据えた。

 

キーン率いるヤンキースは1965年のシーズンを6位で終えた。

 

一方、ベラは街の反対側に移り、ステンゲル監督のメッツのコーチについたが、メッツはお粗末なことで有名であり、ステンゲル監督は顔を紅潮させ退任することになる。メッツは1969年までもはや神話的な低迷期を続けていたが、ギル・ホッジス監督、そして、一塁コーチ・ベラの下、かの「ミラクル・メッツ」はワールドシリーズ制覇を成し遂げる。

 

1972年のシーズン開幕前にホッジスが亡くなると、ベラが監督を引き継いだ。この年の夏、ベラは野球殿堂入りしている。

 

だが、彼が引き継いだメッツは低迷し、その年3位に終わった。が、1973年のシーズンはもっと悪かった。8月半ばには勝率5割をはるかに切り6位だった。もっとも有名なヨギイズムを彼が口にしたのはおそらくこの時期と言われる。

 

「終わるまでは終わりじゃないんだ!」(というような意味のこと)と彼は説き、あれよあれよと見る間にメッツは勢いをつけ、カージナルズに苦しめられながらもナショナルリーグ東部地区で優勝した。

 

メッツはリーグ選手権でレッズを破ったものの、ワールドシリーズではオークランドアスレティックスに敗れた。ベラには3年契約が与えられたが、1974年のメッツはひどい調子で5位に終わり、翌年の8月6日に3位で5連敗を喫したとき、ベラは解雇された。

 

f:id:onedog:20151003052850j:plain

 

再びリーグを移りニューヨークの区を変え、ベラはブロンクスヤンキースのコーチとして復帰し、1984年に気まぐれな監督ビリー・マーティンの後釜として、オーナーのジョージ・スタインブレナーから後任に指名された。その年ヤンキースは3位に終わったが、1985年春のキャンプ期間中、スタインブレナーは結果はどうあれ今シーズン終わりまで監督を任せるとベラに約束した。

 

しかし、16試合を終え、ヤンキースは6勝10敗となり、短気で豪腕のスタインブレナーは何はともあれベラを解雇し、マーティンを呼び戻した。約束を破ったばかりか、スタインブレナーは解任の知らせを目下の者を通じて伝えたのだった。

 

ベラの息子デールがヤンキースに加入したばかりだったので一層辛いものだったが、この解雇は野球史上伝説的な反目を引き起こすことになる。ヒューストン・アストロズのコーチを務めていた4シーズンを含め、ベラは14年間に渡りヤンキースタジアムに足を踏み入れることを拒否する。

 

f:id:onedog:20151003053348j:plain

 

その間、個人寄付者の支援がありヨギ・ベラ博物館&学習センターがモントクレア州立大学のニュージャージー・キャンパスに設立され、1996年にはベラに人文科学名誉博士号が贈られた。そして、マイナーリーグ用の球場、ヨギ・ベラ・スタジアムが1998年ここにオープンした。

 

この博物館は、展示でベラの球史を振り返るものであり、子供たちが野球史に親しむためのプログラムを運営している。1999年には、2010年に死去したスタインブレナーもここを訪れて改心した。

 

「君を解雇したことは間違いだったと理解している」と彼はベラに言った。「私の野球に関する最悪の間違いだった」と。

 

ベラは謝罪にけちをつけようとはしなかった。彼のヤンキーススタジアムへの帰還を歓迎するために、ヤンキースは1999年7月18日にヨギ・ベラ・デーを開催した。ラーソンも招待され、始球式では彼の投球をベラが捕球した。

 

f:id:onedog:20151003053547j:plain

 

驚くべきことに、この日の試合では、ヤンキースのデヴィッド・コーンが完全試合を達成した。

 

ベラがどこかで言ったか言わなかったように、「またもやデジャブ」だった。それは、驚嘆すべき彼の野球人生のクライマックスにふさわしいエピソードとなった。

 

ヨギイズムとされる彼の発言は論理的には何も言っていないに等しいですが、彼の闘志に溢れた気持ちだけは妙に伝わってくるものばかりですね。監督やコーチは技術的に細かいことも言うでしょうが、結局はプレイするのは選手です。言葉という理屈で、理屈では語れないスピリッツを彼は伝えていたのでしょう。それは、まさしく天才的と言えるでしょう。

次の大量殺戮

f:id:onedog:20150918050503j:plain

 

銃を撃つ前に、アインザッツグルッペン(ドイツの保安警察と保安部がユダヤ人を中心とする「敵性分子」を抹殺するために組織した部隊)の指揮官はユダヤ人の子供を宙に持ち上げて言った。「我々が生きるために、おまえは死ななければならん」と。殺戮が進行するにつれ、他のドイツ人もユダヤ人の子供を殺すことを同じように正当化した。彼らを殺さなければ我々が殺される、と。

 

今日、我々はナチスの「ユダヤ人問題の最終的解決」は技術の進歩がもたらす暗黒面の最たるものと考えている。事実、「最終的解決」は戦時中リソースを巡って身近な人間を虐殺しようとするものだった。ユダヤ人がドイツ人の支配下に置かれることになったあの戦争がおこなわれたのは、ドイツ人が生き残り生活水準を維持するためには土地や食料がもっと必要だと、ヒットラーが考えたからだった。そして、ナチスの考えでは、ユダヤ人はヒットラーの暴力的な拡張政策に対する脅威になると信じられた。

 

ホロコーストは、すでに過ちとして学習された遠い昔の恐ろしい出来事のように思えるかもしれない。しかし、悲しいことに、今の環境問題はヒットラーの考えの新しいバリエーションを招きかねず、現在の我々も不安に駆られて再び生け贄と想定敵を作るかもしれないのだ。増加する人口への食糧供給や生活水準の継続的向上に不安を抱える国では、特にそうだ。

 

ドイツ人による支配を追求するというこの考えは、科学の否定を前提としている。ヒットラーは科学ではなく生存圏に依拠する考え方をとった。つまり、何故ドイツ人が東ヨーロッパ帝国を必要とするかといえば、ドイツ人に食べていけるという希望を与えることができるのは、農業技術の向上ではなく土地の征服だけだと考えたのだ。1928年に編集され彼の死後まで出版されなかった「第二の書」において、飢餓は作物の改良を上回る速さで進むだろうが、あらゆる「農地管理の科学的手法」はすでに破綻していると、ヒットラーは主張している。そして、ドイツが「自身の土地と領土」で食べていけるような改善策は考えうる限り存在しないと述べている。これは誤った考えだが、人間が灌漑・品種改良・肥沃化により土地を改良できることを特に否定している。

 

「わが闘争」のなかで、科学を通じた平和と豊かさの追求というのは、戦争の必要性からドイツ人の目を逸らさせるためのユダヤ人の陰謀だと、ヒットラーは言っている。「そのような致命的な考えを植え付けようと目論み、それに成功してきたのは、いつもユダヤ人だ」と。

 

奇妙に聞こえるだろうが、生存圏の概念は我々の考え方と思うほどかけ離れたものではない。ドイツは第一次大戦中封鎖を受けていたが、農業生産物を輸入に依存しており、実際に食糧供給の不確定性に直面していた。ヒットラーは、こうした不安を、全面的な安全を絶対的に追求しようとするヴィジョンに転化した。生存圏を考えることで、抹殺戦争は生活向上に結びつけられる。だからこそ、ナチスプロパガンダの主導者、ヨーゼフ・ゲッベルスは抹殺戦争の目的を「腹一杯の朝食、腹一杯の昼食、腹一杯の夕食」と定義しえた。彼は生活と生命を混同した。

 

ドイツの生存圏を拡張するために、ヒットラーは、ソビエトからウクライナを奪い、東ヨーロッパの3千万人を飢えさせ、食料をドイツに運ぶことを目指した。1941年にドイツがソビエトに侵攻したとき、この軍事行動には2つの目的があった。肥沃なウクライナの大地の掌握と、そこに住むユダヤ人の抹殺だ。身を守る術もないユダヤ人の子供たちを残忍なアインザッツグルッペンの慈悲に委ねたのは、この侵略においてであった。

 

f:id:onedog:20150918050626j:plain

 

気候変動は新たな環境上の恐怖を引き起こそうとしている。現時点では、アフリカや中東の貧しい人々が影響を被っている。

 

少なくとも50万人に上る1994年のルワンダでの大量虐殺は、それ以前数年にわたる農業生産の低下に続いて起きた。フツ族ツチ族を殺したのは、民族的な憎悪だけが理由ではなく、大量殺戮の参加者が後に認めているように、土地を奪うためでもあった。

 

スーダンでは、2003年に干魃でアラブ民族がアフリカ系牧畜民の土地に押し寄せた。スーダン政府はアラブ系の側に立ち、ダルフールのザガワ、マサリート、フール人を抹殺し地域を包囲する政策を進めた。

 

気候変動により、食糧供給の不確定性が再び大国の政治力学の中心課題となっている。戦前のドイツがそうであったように、現在の中国の生産力は、自国の領土だけでは国民に食糧を供給することができず、その結果、予測困難な国際市場に依存している。

 

このことが中国に生存圏的な考えをあらためて受け入れさせるかもしれない。中国政府は、進行する環境悪化に直面する現在、それほど遠くない過去におきた飢餓の歴史と、繁栄がずっと続くという今日の前提を、秤にかけなければならない。危険なのは、近い将来実際に中国で餓死者が出る可能性が1930年代のドイツよりもあるということではない。ヒットラー時代のドイツがそうであったように、軍事力に訴えることのできる発展国は環境パニックに陥ると、現在の生活水準を守るために極端な手段をとるかもしれないということがリスクなのだ。

 

f:id:onedog:20150918050824j:plain

 

そうしたシナリオが現実となるのはどのような場合だろうか。すでに中国はウクライナの耕作可能地の十分の一を借り上げ、世界の食糧供給が逼迫するたびに買い上げをおこなっている。2010年の干魃時、中国の狼狽買いは、中東でパンを求める暴動と革命の一因となった。中国首脳はすでにアフリカを長期的な食料供給地と見ている。いまだ多くのアフリカの人々が飢えているにもかかわらず、世界の耕作されていない耕作可能地のおよそ半分はアフリカ大陸にある。中国同様、アラブ首長国連邦と韓国もスーダンの肥沃地帯に目をつけており、日本、カタールサウジアラビアも加わり、アフリカ中から土地の購入や賃貸をおこなおうとしている。

 

土地を必要とする国家は如才なく交渉で賃貸や購入を始めるだろう。しかし、需要が高まり逼迫する状況では、否応なく暴力に頼ることになり、こうした農業輸出地帯は要塞化された植民地となりかねない。

 

ヒットラーはドイツに安全をもたらすのは土地だけだと主張し、戦争以外の有望な問題解決手段である科学の活用を否定することで、環境パニックを広めた。米国は、温室効果ガスで大気を汚染し、次の環境パニックを他のどの国よりも引き起こそうとしている。いまだに環境科学に抵抗を示す政界と実業界の指導層がいるただ一つの国が米国なのだ。こうした否定論者は、科学者の経験的な発見を陰謀論だとみなし、科学の信憑性を疑問視する傾向があるが、こうした知的姿勢がヒットラーに似ているのは不愉快なことだ。

 

地球温暖化が他の地域に大惨事を及ぼしてからたった数十年後には、気候変動のもたらす影響が全面的に米国に及ぶだろう。その時には、気象科学やエネルギー技術で事態を変えるには手遅れとなっているだろう。米国で環境パニックの扇動家が動き出す時分には、間違いなく、米国は世界中に気象災害を引き起こした後に違いない。

 

米国とは対称的に、EU地球温暖化を非常に真剣に受け止めているが、EU自身の存続が危機にさらされている。アフリカと中東が温暖化を続け戦火が吹き荒れる中、経済移民と戦争難民は危険に満ちた旅をして欧州に押し寄せている。これに対して、欧州のポピュリストは国境の管理強化とEUの解体を求めている。こうしたポピュリズム政党の多くはロシアの支持を得ているが、ロシアはEU解体を目指す分割統治政策を公に追求している。

 

f:id:onedog:20150918051004j:plain

 

ロシアの2014年のウクライナ介入は、欧州が当然のこととしてきた平和的秩序をすでに粉砕してしまった。経済的には欧州への天然ガス輸出に依存しているクレムリンのロシア政府は、今、天然ガスの交渉を欧州の各国一つ一つと個別におこない、EUの結束を弱め自身の影響力を拡大しようとしている。その一方で、ウラジミール・V・プーチン大統領は1930年代への郷愁を煽り、ロシアのナショナリスト反戦感情を理由に同性愛者、コスモポリタンユダヤ人を非難している。欧州の将来、そしてロシアの将来のためにも、これは何ら明るい兆しとなるものではない。

 

大量殺戮が進行しつつあっても、それは我々がそれと分かるような形では目につかないだろう。1941年のナチスの筋書きは全く同じような形で現れることはないだろうが、その要素のうちありふれたいくつかはすでに形を取り始めている。

 

すでに起こっているアフリカでの民族大虐殺。きな臭い中東におけるイスラム主義の暴力的全体主義覇権の勝利。現地住民の排除を含めて、アフリカ、ロシア、東ヨーロッパのリソースを求める中国の活動。米国が環境科学を無視することで生じる世界的環境パニックの高まり。EUの解体。これらはどれも容易に想像できることだ。

 

今、我々は、科学とイデオロギーの間で、かつてドイツが面したのと同じ重要な選択を迫られている。我々は、経験的な証拠を受け入れて新しいエネルギー技術を支持するのか、それとも、環境パニックの波を世界中に広げることになるのだろうか。

 

科学を否定することは、過去の亡霊を呼び起こし、未来を危機に陥れることになるのだ。

 

 

農業やエネルギーの技術は世界を変える可能性を秘めています。しかし、技術開発には時間もかかりますし、不確定性もあるのが事実です。実際に目の前に危機が迫れば、確実な資源略奪のための戦争には説得力があります。飽食に倦む先進国の立場からは忘れがちなことですが、世界を動かす問題として食糧供給を考えることを忘れてはいけないと思います。

 

「バーニング・マン」の宴は終わり、法的処理が始まる

ネバダブラックロック発)

 

f:id:onedog:20150913222801j:plain

ペンライトも、フェイクファーのレッグウォーマーも、そして砂を固めたテントも、みなどこかへ行ってしまった。野獣やボートを模して飾られた車も走り去り、ブラックロック砂漠で先週開催された雑多なアートパーティー、「バーニング・マン」が今年も終わった。

 

しかし、浮かれ騒いでいたものの中には、まだパーティーが砂に消えた思い出になっていない者もいる。大勢の警察官により、600以上の出廷通告が渡され、数十人が逮捕された。ほとんどの逮捕者は、裸同然の格好でふざけ回る砂漠の大騒ぎを万華鏡のような冒険と思わせる幻覚剤のような違法薬物の所有によるものだ。

 

要するに、パーティーは終わったが、地元の法廷、弁護士、捕まった参加者にとっては、頭の痛い話は始まったばかりなのだ。

 

f:id:onedog:20150913222816j:plain

 

フェスティバルが開催されたネバダ州北西に位置する郊外の谷間、パーシング郡の警察署によると、バーナーと呼ばれるイベント参加者のうち40人以上が逮捕された。警察と共にこのイベントの監視責任を持つ連邦機関である土地管理局のスポークスマン、ルディ・エヴンソンは、出頭で払う罰金は100ドルから500ドルの範囲だという。罪状は、不法なゴミ投棄や薬物の所持・使用などである。

 

雨期には浅い湖となるこの乾燥地帯はプラヤとして知られるが、ここに推定7万人を集めるこのフェスティバルの主催者は、逮捕者が比較的少なかったと喜んでいた。というのも、パーシング郡の新しい保安官、ジェリー・アレンによって厳しい取り締まりがおこなわれるのではないかと恐れていたからだ。アレン保安官は、前任者と比べて、自分の管区内で開かれるこのレイブに対して明らかにより厳しい姿勢をとっていた。

 

イベント開催前の地元新聞リノ・ガゼット・ジャーナルのインタビューで、アレン保安官は「我々は、プラヤに集まる裸の7万人に召喚状を発行するだけの人手を持っていないが、法律を駆使してできるだけのことはするだろう」と答えていた。

 

f:id:onedog:20150913223005j:plain

 

宴の後の後片付けは進んでいるが、火の粉がおさまっていない者もいる。ネバダ州リノ市の弁護士、ジョン・B・ローサイスは、バーニング・マン参加者を10年以上に渡り弁護しているグループの仕事として、参加者を代表している。毎年、彼は連邦検察官と交渉し、弁護依頼人であるバーナーの訴追を軽減しようとしてきたが、依頼人は例年約60人に上る。

 

ローサイスは、「参加者は、バーニング・マンを体験するためにここへやってきて、通過儀礼の一部として、麻薬や幻覚剤を相伴することもあるだろう。それに対して、かつてはなかったような重い処罰を受けることが今はある」

 

最近では、連邦政府ではなく地元により逮捕が執行されることが多いが、これはバーナーにとっては良い話ではない。ネバダ州では、少量のドラッグに対しても長期の懲役実刑が義務づけられている。とはいっても、過去の実例から見て、裁判官が参加者に対して重罪を言い渡すことはほとんどなかった。

 

f:id:onedog:20150913223039j:plain

 

ローサイスの依頼主の一人、パメラ・ジェンキンス(35)はラスベガスのカップケーキ店のオーナーだ。イベント会場のすぐ西のワショー郡の交差点で彼女の車を嗅ぎつけた警察犬に吠えられたおかげで、フェスティバルの開始とともに彼女は捕まった。ドラッグの所有やレベル3のドラッグ売買を含む何件かの罪状で、ジェンキンスは懲役25年の重罪処罰に直面した。罪状の一つは、車内にドラッグと一緒に7歳の子供を連れていたことだ。警察によれば、「相当な量」の(マジックマッシュルームに含まれる)サイロシビンと別の幻覚剤、ジメチルトリブタミン(DMT)が車内にあったという。

 

ローサイスを通じて、ジェンキンスは告訴に対する落胆を示している。電子メールの声明で、彼女は「家族や友人と私はバーニング・マンに参加することで、意識を高め、より良い人間になろうとしていたのです」と述べている。

 

f:id:onedog:20150913224247j:plain

 

違法行為の中には文化的な軋轢により生じたものもあるだろう。2012年にインターネットフォーラムのReeditに投稿されたケースでは、あるバーナーは、12歳の息子に裸になることを許可したために保安官代理に児童監督不行届で逮捕されたことがあると述べている。

 

パーシング郡の監獄を思い出しながら、この父親は「その夜はラブロックで明かしたが、5600ドルの保釈金を支払うために、保釈保証人に885ドルを支払った」と書き込んでいる。

 

しかし、遠方の各地からこのフェスティバルを訪れる多くの参加者は、バーニング・マンから約3時間もかかるリノのような所にある法廷に戻ってくることはできないので、告訴に対してわざわざ争わず、金を払って済ますことなる。このプラヤでは公知の禁句となっているが、このフェスティバルはこの地域の収入源であり、この土地を使用するためにも多額の費用を支払っている。

 

f:id:onedog:20150913223119j:plain

 

それでも、ほとんどの人の意見では、今年の御役所の法執行は寛容なものだった。かつては、プラヤへの道中で多くのバーナーが通過する近隣のモノ郡は、フェスティバルの期間中に道路のパトロールを行うため、多くの臨時警官を雇用までして、いかなる無軌道な行為も捕まえてやろうと手ぐすねを引いていた。新任のモノ郡保安官、イングリッド・ブラウンはこの施策を撤廃した。

 

ブラウン保安官は電子メールでこう答えている。「我々は、バーニング・マンに行く旅行者を、他の旅行者と同じように遇しますし、バーニング・マンの開催中、取り締まりを強化する必要もないと思います。我が郡は経済を潤すため観光に依存しているので、すべての旅行者は大切です」

 

フェスティバルは、「レンジャース」と名付けた700人のチームを結成し、ブラックロックシティと呼ばれる臨時のキャンプ地を見回る。フェスティバルのスポークスマン、ジム・グラハムは、「ブラックロックシティはあらゆる州および連邦の法律を遵守する」と語る。参加者は、「適切な行動をとるように」と注意されている。

 

f:id:onedog:20150913223136j:plain

 

バーニング・マンは、例年通り、人の姿をした巨大な人形のドラマティックな篝火で最高潮に達し、先週末終了した。ユニフォーム姿の一団として立ち入り、プラヤをパトロールした120名以上の法執行官には、地元の保安官代理だけではなく、米国森林局、米国国立公園局からも加わっている。奇妙な格好をしたバーナーの中には、銀色のペイント以外何も身につけていない年配の男たちもいるが、彼らはそのバーナーの間を縫うように動き回り、安全に関する心得の伝達や酩酊したバイク乗りに対する警告をおこなった。彼らは秩序の下で実に格好良かった。

 

土地管理局のスポークスマン、エヴンソンは、「人々が彼らのテーマキャンプに招待したら、招待を受けなさい。制服で適切なことであれば、彼らの行動にも参加します」と言っている。

 

ある執行官はバッド・アドバイス・ブースのパフォーマンスアートにまで参加したと彼は言う。シフトの休憩時間を、ブースのお客にドラッグを勧めて過ごしたのだそうだ。

 

f:id:onedog:20150913223234j:plain

 

 以前、テレビで壁にぶち当たった役者さんがこのイベントを訪れるというドキュメンタリーを見たことがあったのですが、アメリカのこうしたヒッピー文化の影響を引き継いでいるイベントの運営は大変そうだなと思いましたが、やはり、実際に毎年数十人の逮捕者を出しながら続いてるんですね。日本では想像しにくいですが、日本版も開かれるようです

 

LOVE&PEACEなマッドマックスの世界という感じですね、これは。フジロックに来ている外人も元気な人多いですが、これはあんなものではないですね。単なる見物人ではなく、自ら参加することが求められるようなので、ネバダの砂漠までキャンピングカーを走らせて参加するのは大変そうですが、確かに一度行くと人生観が変わるかもしれません。

 

Wikipedia

公式HP(英語)

 

ナチスの金塊を載せた伝説の列車を発見?

f:id:onedog:20150828065425j:plain

財宝を探す人々は第二次大戦が終わって以来ナチスの財宝を探してきたが、言われていた場所にあったためしはなかった。しかし、二人の宝探しが、ポーランドの山の中に金塊と宝石を積みこんだナチスの列車を発見したと主張している。

 

映画の筋書きのようだが、姿を消した列車はヴロツワフ市周辺の地域では、ちょっとは知られた伝説となっている。物語は第二次大戦終戦にまで遡る。ソビエト軍東ドイツを闊歩するようになり、金塊や貴重な芸術品、宝石を積んだナチスの列車がポーランドの都市近郊にある巨大なトンネル複合施設の中で姿を消した。それから半世紀にわたり、列車とそこに積まれていたとされる財宝のなんらかの手がかりを見つけようと、トンネルで宝探しがおこなわれてきたが、それはみな徒労に終わっていた。もし、二人の匿名の宝探しが信用できるとすれば、終止符が打たれることになる。

 

歴史家は列車の存在には裏付けがないと言うが、8月半ばにポーランドの法律事務所は、2人の男が列車を発見したと主張していることを発表した。2人は地元の役人を納得させた模様であるばかりでなく、列車のありかを教える前に発見の見返りを求めている。

 

「列車は発見されたと信じている。この情報を真剣に受け止めている」と、ポーランド南西のヴァウブジフ市の役人は述べている。

 

2人の男が何者であるかは明らかにされていないが、列車の場所を教える代わりに列車の財宝の10%を求めている。もし、列車が本当に存在するなら、わずかな割合でもかなりの大金になるだろう。ポーランドのニュースウェブサイトは、列車には200トンの金塊が積まれているかもしれず、情報が本当であれば、地元の関係者はよろこんで支払に応じるだろうと伝えている。

 

f:id:onedog:20150828065511j:plain

 

ナチスの列車に積み込まれた謎の金塊の存在を疑うのは理由がある。この伝説は、そもそもが伝言ゲームから生じたものだ。伝えられるところによれば、ヴロツワフ近くにあるオウル山中のトンネルに列車が牽かれていくのを見たというドイツの鉱夫たちの話を、それを聞いたポーランドの鉱夫が伝えたものだという。当時、この山のあたりはドイツの支配下にあり、ヒットラーが秘密の司令部を地下に作らせた。「巨人」という名で知られるこの基地には、巨大な列車トンネルが張り巡らされているが、完成することはなかった。それ以来、噂は残り、多くの宝探しが山の中を探したが、すべて失敗に終わってきた。

 

発見されたかもしれないという知らせを受けて、地元の役人は列車発見に備えて、消防夫、警察官、軍事専門家を含めて緊急態勢をひいた。話通りに列車が存在し財宝を積んでいるなら、列車の防備は万全だろう。

 

地元議会の議長は「もし本当に列車があるのなら、地雷が仕掛けられている可能性が高い。大量のメタンガスが充満している可能性もある」と語っている。

 

第二次大戦終戦から70年が経過しても、大戦時の不発弾が見つかることは珍しくない。2013年には、90ポンドの爆発の恐れのある地雷や爆撃弾が、インド軍によりムンバイ湾で引き上げられ、爆破処理されなければならなかった。地元の人々の中には、これほど長年見つからなかった財宝を積んだ列車が見つかったことに懐疑的な人もいる。

 

地元のジャーナリストはこう語っている。「その列車が本当にあるということを確証している者はいません。発見は近い、トンネルの入り口までは来た、中にもうすぐ入れる、というニュースを5年おきに聞いてきたんですからね」

 

f:id:onedog:20150828065451j:plain

 

徳川埋蔵金みたいな話です。第二次大戦で行方の分からなくなったままの美術品というのも、良く聞く話です。本当に出てきても不思議ではないですし、完全に可能性を否定することもできないでしょう。欲のあるところに、永遠に夢は存在するという話なのでしょう。しかし、やっぱり、わくわくしますね。

長崎、最後の原爆

1945年8月9日午前3時47分、B29スーパーフォートレスは、北太平洋テニアン島の米軍基地から離陸した。日本の都市に第二の原爆を落とすセンターボード第二作戦が始まったのだ。だが、最初から、作戦は三日前の広島への攻撃の様には順調に進んでいなかった。あの攻撃は教科書通りであり、後に軍の歴史では「作戦遂行上、計画通り」と分類されることになる。エノラゲイは、なんの問題もなく、目的地に到着し、帰還した。そして、ハリー・トルーマン大統領の名で出された発表により、作戦成功が喧伝された。しかし、センターボード第二作戦のために選ばれた爆撃機ボックスカーは、燃料ポンプの不調で、滑空路に出てくるのも遅れた。たった一日前には、4台のB29が続けて離陸時に事故を起こし、燃料による大きな火災が生じたばかりだった。テニアン島の技術者は「飛行機が島を飛び立つまでに、我々はみな10歳年を取った気がする」と書き記している。ともあれ、飛行機は島を飛び立った。

 

f:id:onedog:20150812013429j:plain

 

 

ボックスカーは、ファットマンと名付けられた5トンの原子爆弾を積みこむために、武器や兵器をほとんど搭載していなかった。離陸13分後、テニアン島時間で午前4時、兵器技師は尾翼側に行き、2つの緑の安全プラグを原爆から外して、赤の起爆プラグに交換した。これで、原爆は爆発可能になった。広島に投下された原爆は比較的ずんぐりした円筒型だったが、この原爆は巨大な卵のような形だった。直径1.5メートル、全長3.4メートルで、芥子色に塗られていた。後方部にはがっちりとした箱形の尾翼が付いており、これはカリフォルニア・パラシュートと呼ばれていたが、投下後に急回転することを避けるための設計である。原爆を組み立てた整備士チームは原爆の外側に自分の名前を書き、「あなた方への贈り物」、「裕仁への二度目のキス」といった日本人へのメッセージを書いた者もいた。原爆の先頭部には、ステンシルでJANCFUと書かれていた。これは、Joint Army-Navy-Civilian Fuckup、「陸軍、海軍、市民、まとめてくたばれ」の略だ。

 

f:id:onedog:20150812013445j:plain

 

爆撃機は、嵐の吹く暗い空中を6時間飛行して屋久島に到着した。ここで同行する2機のB29と合流するはずだった。1機は原爆の破壊力を測定する計器を取り付けたグレート・アーティスト、もう1機は撮影機のビッグ・スティンクの予定だったが、ビッグ・スティンクは姿を見せなかった。5分後、ボックスカーとグレート・アーティストは、第一攻撃目標の小倉市に向かった。小倉市の人口は、広島の約半分にあたる17万8千人であり、米軍の作戦担当が日本最大級とみている軍需工場があった。気象偵察をおこなっているエノラゲイからは、条件は良好という電信連絡があった。

 

爆撃機の乗員は目標をレーダーではなく目視で確認するよう言命されていた。爆撃の及ぶ範囲は恐るべきものだったが、1、2マイル目標をそらすだけでも爆撃の効果が大半失われるかもしれなかったからだ。(レーダー爆撃は特にこうしたエラーに対して影響を受けやすい。)ボックスカーが午前10時45分に小倉に到着したとき、兵器技師の飛行記録によれば、乗員は軍需工場が「地上の厚い靄と煙ではっきりと見えない」ことに気がついた。長年にわたり、この運命の変化に対して三つの説明がされてきた。第一に、気象の変化である。第二に、この煙は、前日の米軍による隣接する都市、八幡への爆撃によるものだとする説である(本当なら、なんと皮肉なことか)。第三の説として、小倉の大規模な発電所に勤務していた何人かの技師が近年主張しているのは、この霞は意図的な蒸気の放出であり、B29爆撃機エノラゲイが発見されたときには常におこなわれていたというものである。この三つがすべて同時に起こっていたのではなく、どれか一つだけが正しかったとしても、小倉への目視による爆撃は遂行できなかっただろう。対空射撃が進路を阻み、45分後、乗務員は第二の攻撃目標に切り替えることを決断する。すなわち、長崎である。

 

核時代の破滅的な幕開けを思い起こすとき、我々は広島に焦点を絞りがちである。それは最初の核爆撃であり、最初の出来事は真っ先に思い出される。広島への核攻撃は長崎よりも破壊的であり、死傷者・負傷者は2倍近くに上り、破壊された面積は3倍に及んだ。(エノラゲイにより落とされた原爆リトルボーイの爆発力はファットマンの4分の3でしかないのにもかかわらずである。)しかし、軍事的見地から見て、広島攻撃は熟考され、綿密に計画され、しっかりと実行されたのに比べ、長崎の場合はほとんど正反対だった。当初から、長崎への原爆投下はJANCFUだったのだ。それは、長崎への攻撃理由と戦略の結果が示すように、この新しい時代ではエラーとニアミスに踊らされることになる兆しであった。

 

f:id:onedog:20150812013654j:plain

 

爆撃から数年後、マンハッタン計画の責任者だったレズリー・ グローヴス中将は、長崎がいつどのようにして「攻撃目標に挙げられたのか」、正確に把握することができなかったことを認めた。長崎は、1945年4月末の17の原爆投下候補地リストには含まれていたが、5月始めには候補地から外された。長崎は、エンジンや魚雷を製造しており、重要な港ではあったが、連合国の捕虜収容所があったことが攻撃を躊躇わせた。そして、攻撃目標という観点からは、難しい地形であった。広島や小倉では、工場地帯と市街地が比較的平坦な土地に集中していた。しかし、長崎は、谷に囲まれており、山で二つに分かれ、大きく整備された中心地がない都市だった。

 

京都、広島、横浜、そして小倉が、最初に選ばれた四つの候補地であり、新潟がそれに続いた。それからすぐ、繰り返された空爆の結果を受けて、横浜が候補から外れた。米軍は、通常爆撃ですでに破壊されていない攻撃目標を選んだ。すでに攻撃を受けた瓦礫があっては、新兵器の破壊力を評価することが困難になるからだ。その後、文化的な重要性を鑑み、京都も候補から外された。残ったのは、広島、小倉、新潟だった。京都と共に、この三都市は候補地リストに加えられた。他の空爆の対象からは外され、原爆のために温存された。

 

長崎は、まったく温存の対象とはならなかった。変わることなく爆撃を受けており、ファットマンが投下されるまで少なくとも4回は爆撃を受けているし、センターボード第二作戦が始まる一週間と少し前にも爆撃を受けた。長崎は、作戦計画が決定する前日まで候補地には挙がっていなかった。1945年7月24日の爆撃命令書の草稿では、「広島、小倉、新潟を優先候補」として攻撃目標に挙げている。米国立文書館に収められたグローヴスの報告では、誰かが「優先候補」に取り消し線を引き、「そして、長崎」という追記が書き込まれている。

 

f:id:onedog:20150812013729j:plain

 

ボックスカーはテニアン島時間で午前11時50分に長崎に到着したが、この地点まで8時間近く飛行を続けていた。機体の機械的な不調もあり、乗員は引き返すか、不時着水するかという状態に近づきつつあった。空軍基地に無事帰還する望みをつなぐには、ファットマンを海中に投棄しなければならなくなっただろう。パイロットの一人は業務日誌にこう記している。「残された燃料は2時間分以下だった。太平洋は冷たいだろうか、という考えが頭をよぎった」


長崎にも雲が立ちこめていた。その日は爆撃手の27歳の誕生日であったが、ボックスカーが長崎に向けて飛行する間、彼は雲の切れ間を探した。前もって指定された攻撃目標は三菱製鋼と三菱の兵器工場であり、谷の河口部、海の入江沿いに長さ800メートル、幅400メートルにわたり広がっていた。「見つけた!見つけた!」と爆撃手は突然叫んだ。爆撃機の操縦、原爆投下の操作は、彼の手に委ねられた。45秒後、ファットマンは投下された。ボックスカーは旋回し、原爆と差し迫った地獄絵図から距離をとった。

 


HD Historic Stock Footage ATOMIC BOMB "Fat Man ...

 

ファットマンは正午から2分後に、地上約500メートルで爆発した。三週間前にニューメキシコでおこなわれたトリニティ実験で集められた測定データによれば、この高度が(市民の住んでいた)木造家屋への破壊効果が最大になる。爆発のカラー映像がグレート・アーティストから撮影された。付近の雲が衝撃波で吹き飛ばされ、ピンク色とオレンジ色の核爆発の火球が立ち上るにつれて白くなっていく様子がフィルムには映されている。カメラマンは上下にカメラをパンして、全景を収めている。地上は死と混沌に支配されていたが、上空からはきのこ雲が見えるだけだった。

 

爆撃手は本当に攻撃目標を目視できたのだろうか?戦後の資料からははっきりしない。物理学者で後にノーベル賞を受賞するルイス・アルヴァレズは、広島への原爆投下作戦にもオブザーバーとして参加しているが、雲の合間を飛行しながらの最後の瞬間には大抵攻撃目標は「一粒の塩」のようにはっきりとせず、爆撃の精度はレーダー爆撃と同程度だと後に記している。爆心地は目標を1200メートルほど外れたが、三菱製鋼と兵器工場を破壊するには充分近く、街の別地域の魚雷工場も破壊できるくらい北にも逸れていた。

 

f:id:onedog:20150812013544j:plain

 

しかし、原爆がこの予定外の二重の成功を収めたのは、ほとんどが市街地である地域に向けて逸れたからこそだった。1946年に作成された米軍の公式被害地図では、爆発地点を中心とする半径約900メートルの建築物が示されている。長崎刑務所、三菱病院、長崎医科大学鎮西学院中学校、城山国民学校浦上天主堂長崎県立盲学校・長崎県立聾唖学校、山里国民学校長崎大学病院、三菱長崎工業青年学校、長崎結核院、瓊浦中学校といった建物だ。米政府の戦後の見積もりによれば、4万人が死亡し、4万人が負傷した。広島への原爆投下後であり、原爆はもはや機密情報ではなかったため、米空軍は、人道的警告のみならず心理戦として、長崎市民に来たるべき衝撃について知らせるプロパガンダのちらしを作成していた。しかし、軍内部での爆撃機乗員との連絡不手際により、ちらしの配送は遅れた。ちらしが長崎の街中にばらまかれたのは、ファットマンが投下された翌日のことだった。

 

ボックスカーはきのこ雲の周囲を一周旋回した後、一番近い緊急避難基地である沖縄へと向かった。午後1時20分に沖縄に到着し、無線手は必死に着陸許可を求めた。が、返答はなかった。パイロットの一人が舷窓から信号拳銃を撃ち、地上側の意向がどうであれ、爆撃機が近づいていることを見る者へ警告した。着地は乱暴であったが成功した。(着地時に、燃料切れですぐにエンジンは止まった。)乗務員は確認報告を指揮官に無線連絡し、食事を摂った。テニアン島へは午後10時まで帰らなかった。彼らを待っている者はいなかった。写真撮影もなかった。一方米国では、原爆投下は一面を飾ったものの、ソ連の参戦と紙面を分け合う形となった。

 

f:id:onedog:20150812013605j:plain

 

トルーマン大統領は、最初の原爆投下からこれほどすぐ第二の原爆が投下されたことに驚かされたようだった。広島における地上での被害に関する日本での報道の傍受は、アメリカの高官に漏れ伝わる程度であった。トルーマンは、7月末の日記に「軍事関連物、兵士、海兵」が原爆の攻撃対象であり「婦女子が対象ではない」と記していたが、原爆の現実に初めて直面することとなったのは明らかだった。商務長官ヘンリー・ウォレスは、彼の日誌に「さらに10万人の人々をこの世から消し去るという考えは、大統領にとって余りに恐ろしいものだった」と書いている。「彼自身が述べたように、日本人の子供を虐殺するという考えに彼は同意しなかった」とも、付け加えている。

 

長崎への原爆投下翌日、トルーマンは原爆に関して初めて肯定的な命令を発した。彼の特別承認無しにはさらなる原爆攻撃は認めないというものだ。彼は原爆投下命令を出していないが、原爆投下を止めるためにこの命令を発した。我々の歴史的記憶において、怒りに駆られて使用された最初の核爆弾として、広島が第一の位置を占めるとしても、長崎も長い目で見れば第二の原爆投下地という以上の重要な意味を持つことだろう。おそらくは、最後の原爆投下地として。

 

広島に比べると、長崎は同じ原爆投下地でありながら、取り上げられる機会は確かに少ないように思います。逆にそのためか、戦争の風化が危惧されることが多い70周年の今年は、長崎を取り上げる報道も比較的多かった気がします。新たな事実が示されているわけではありませんが、原爆投下の必要性が本当にあったかどうか、という問題の観点から見ると、この長崎の原爆投下は確かに駆け込みの実験的な側面があったことを伺わせます。その後ろめたさを自覚しているからこそ、米大統領の原爆投下地訪問が実現しないのでしょう。

イラク、ISISの脅威に面し、国立図書館の電子化を進める

ISが歴史的・文化的な資料を破壊することを危惧

 

f:id:onedog:20150809015932j:plain

 

薄明かりの中で埃を積もらせたバグダット国立図書館の書類には、過去の重要文書が含まれている。しわが寄り黄ばんだ紙に綴られているのは、サルタンと王、帝国主義者社会主義者、占領と解放、戦争と平和といったテーマをめぐる真実の物語なのだ。

 

これらの文書は、イラクの豊穣で激動に満ちた歴史の一次資料である。米軍主導の侵攻のさなかに資料は大量に失われ損傷を被ったが、今、バグダットの司書と学者は、残された資料を保存するため一心不乱に作業を進めている。

 

イスラム過激派組織ISが、交戦中の都市モスルに保存されていたかけがえのない本や手稿をはじめとする、イラクの歴史的・文化的資料を破壊し始めたため、文化財保護とデジタル化を目指す大規模なプロジェクトが千年に及ぶ歴史を保護すべく進行中である。

 

図書館の管理部門にある暗室で、もっとも貴重な手稿の一部を職員が特別な照明下で撮影している。マイクロフィルム部門長のマジン・イブラヒム・イスマルによれば、現在、彼らは、イラクの最後の王制、すなわち、1938年から1958年にかけて在位したファイサル2世統治下の内務省の書類を処理するテストをおこなっているという。

 

「200年から250年前のオスマン朝時代のさらに古い書類の一部が修復完了すれば、それをマイクロフィルムに撮影し始める予定です」とイスマルは言う。すぐに公開はしないが、デジタル・アーカイブになれば、今後の脅威に対して資料の安全性はさらに高まるという。

 

f:id:onedog:20150809020114j:plain

 

修復作業はまるで顕微鏡下の外科手術なみに大変で、それぞれの書類がどんな損傷を被っているかということは、その書類自体の一つの物語であり、パズルでもある。余りに頻繁に使われたので破れてしまった手稿もあれば、攻撃や破壊により燃えたり染みが付いてしまったものもある。年月を経て、完全に化石のようになってしまったものある。湿気と焼け付くような高温が相まった末に、地中から掘り出された大きな岩のようになっているのだ。

 

修復部門の上級職員ファットマ・クダーリは、「こうした本は、修復が一番難しい」と言う。「特別な器具を使い蒸気を当てて、ページをはがして分離しようとしています。救い出して他の保存技術を施すことのできる本もありますが、それ以外の本については修復は不可能です」

 

技官たちは手稿や書類を48時間かけて殺菌し、年月のうちに積もった埃や汚れを洗い落とす。それから、一頁一頁、書物の保存や修復のために作られた和紙を用いて、破れた角を補い、さらに弱い書類には耐久性を上げるように薄い層として重ねていく。

 

バグダット国立図書館は、1920年に寄付で大英帝国により設立され、最初はカトリックの神父により監視されていたが、これまで暴力による激動を乗り越えてきた。2003年に始まった米国主導の占領下では、首都が混乱に陥り、放火犯が図書館に火を放ち、書物の25%と保存資料のおよそ60%が失われた。その中には貴重なオスマン朝の記録も含まれていた。1977年から2003年にかけての記録が灰燼に帰したのである。それ以前の1920年から1977年の記録は、微妙な内務省の書類を含めて、米袋に保存されていたので焼失を逃れた。

 

イラク侵攻の間は、「最も重要な書籍と文書のために、観光省に別の保管所を持っていた」と、バグダット図書館・公文書館責任者のアブデル・マジード・アブダルカレムは言う。「この書籍と重要文書は水を浴びることになった。というのも、アメリカの戦車が水道管を破壊し、こうした文化的重要物が水びたしになったからだ」

 

f:id:onedog:20150809020028j:plain

 

なかにはオスマン朝時代に遡るものもある約40万ページの文書と、4千冊の稀覯本が、水道管破裂の被害を受けた。その中には、貴重なヘブライ文書も含まれるが、その大半はその後ワシントンに運ばれた。

 

アメリカ議会図書館の専門家チームがバグダットを訪れ、損害の見積もりを手助けし、新しい国立図書館を建設するよう推奨した。それから10年以上が過ぎ、4万5千平方メートルの広さを持つ最新鋭の新しい図書館が、ロンドンを拠点とするAMBSアーキテクトにより設計され、来年開館の予定である。

 

f:id:onedog:20150809020144p:plain

f:id:onedog:20150809020156j:plain

 

 

それまで、バグダット国立図書館は紛争に巻き込まれた地域がイラクの文化を享受し理解するための援助をおこなおうとしている。図書館の責任者は、イラクの芸術と文学を共有することがテロリズムと闘うための鍵だという。この数ヶ月、イラク軍がIS軍からディヤーラー県の都市を奪還した後、バグダット国立図書館はその各地の図書館に2500冊ほどの書籍を寄付した。

 

好戦的な人々は「実際にどうだったかではなく、自分たちの見方を歴史に反映させたいと考える」とアブダルカレムは言う。「だから、地域が解放されたとき、その地域の本が盗まれたのであれ破壊されたのであれ、我々はそこに本を送り補充する。それは、この地域のイラク人にその本に触れてもらい、イラクの豊かな歴史に常に誇りを感じてもらえるようにするためでもあるのだ」

 

ISの文化財破壊には暗澹とした気持ちになりますが、文化も、また一つの戦いなのだと思います。