ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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ローマ教皇庁の同性愛に関する真意

人々が思うような大転換ではない

月曜日、同性愛に対する教会のスタンスが軟化する兆しと多くの人々が解釈したバチカンの文書を巡って、カトリック世界とメディアは騒然とした。しかし、この文書の内容のトーンは、現実にポリシーを変更することからはほど遠い。

 

問題になったのは、大半の人は聞いたこともない3つの単語、すなわち”Relatio post disceptationem”という言葉だ。これが、カトリック教会司教の特別宗教会議が月曜日に発表した文書のタイトルである。この宗教会議は、現代の家族のあり方を議論するためのものであり一週間に及んだ。このタイトルを翻訳すれば、「討議報告書」となる。この文書は、宗教会議の第2週の冒頭にあたって、ホールで高らかに読み上げられた。全58章のうち、物議を醸すこととなった1章は、「同性愛者の歓迎」というタイトルだ。

 

「同性愛者は、キリスト教徒に貢献する才能と資格を持っている」と、その章は始まる。「我々は、キリスト教徒の中に同性愛者を兄弟として遇する場を保障し、同性愛者を歓迎することができるであろうか。しばしば、同性愛者は、迎え入れてくれる教会に出会えればと願っている。家族と結婚に関するカトリックの教義において妥協することなく、同性愛者の性的傾向を認めて価値を尊重し、彼らを教会に迎え入れることはできるだろうか」

 

歴史的に同性愛を罪と結びつけて語ってきた教会が、どんな形であれど同性愛者を迎えるという考えは大きな変化と映る。さっそく、ニュースの見出しは、教会のスタンスが「劇的変化」、「寛容化」したと書き立てた。

 

しかし、結論に飛びつく前に、どんな立場であれ、みな落ちつくべきだ。

 

第1に、この文書が実際に述べているのは、こういうことだ。

 

この報告書は、先週、宗教会議ホールでの200名以上のカトリック教会リーダーによっておこなわれた対話の、いわばスナップショットというべき中間報告である。今週、神父達が小グループに分かれて始める議論のための出発点にすぎない。ルイス・アントニア・タグル枢機卿が月曜日の記者会見で述べたように、司教が「理解を深め明瞭なものとする」ことが必要な課題を判別するための作業中の文書なのだ。つまり、同性愛者とカトリック信仰というトピックスがこれまでに宗教会議の対話の議題に上がり、引き続き省察されるトピックスとなっているというだけなのだ。

 

第2に、この文書が述べていないのは、こういうことだ。

 

報告書は、禁止事項を述べた文書ではない。教例ではない。教義でもないし、教義が変更されたわけでもない。最終的なものでもない。「これは決定事項でもなければ、見解というわけでもない」と報告書は締めくくられている。「ここまでに述べられた省察は、相互に耳を傾け合おうという精神と自由な雰囲気においておこなわれた宗教会議の対話の成果である。この省察の目的は、問題を提起し、考察の視点を示すことにある。2015年10月に予定されている定例司教宗教会議までの間に、提起された問題と視点について、各地の教会は省察し、理解を深め答を探さなければいけない」

 

結局、これはどういうことか。おそらく、月曜日の記者会見でのタグル枢機卿の言葉が状況を言い当てている。「ドラマはまだ続く」

 

報告書は、何カ所かで結婚とは男女間のものであることを再確認している。この点に関して実質は何も変わっていない。この宗教会議では教義の変更はおこなわれないし、最終文書には新たな典礼が加わることもないと、バチカン教皇庁は繰り返し念を押してきた。「同性愛者を歓迎する」というのは、教会がもはや同性愛を罪とは見なさないという意味ではない。

 

むしろ論調は、フランシス教皇の常として、何が論点かを語るものである。フランシス教皇のスタイルとは、まずは祝福と慈悲の精神から始めることであり、罪を咎めることから始めることではない。いかなる点で祝福を与えることができないかを決める前に、いかなる点で祝福を与えることが可能なのか明らかにするところから始めるということだ。バチカン評論の第一人者であるジョン・トビアスなどが今回の中間宗教会議を「地震」と評した一因はこの点だろう。

 

しかし、忘れてはならないのは、この家族に関する宗教会議はほぼ2年間に及ぶ過程を経るのであり、今回の報告はそのプロセスの中の1週間のスナップショットにすぎないということだ。今後数ヶ月にわたって、さらに多くのこうしたスナップショットのような文書が現れるだろう。今年初めに世界中の司教がそれぞれの地区の信者の家族生活について調査を始めたときに、この問題に関する対話は始まっている。そして、先週のローマにおける会議で、対話はさらに公式に始まった。この後、各司教は各地域に持ち帰って対話をおこなう。来年の夏には、伝統的に保守的な教区であるフィラデルフィアで、家族に関する世界会議が開催される。そして、最終的に来年の秋、さらに多くの司教が世界中から集まり、第2回の宗教会議で議論が重ねられる。

 

急激な変化を求めると、誤解をもちやすい。実際に起こっていることと、起こっていないことを、見まちがえることになる。バチカンの人々や発展途上国の人々とは性的指向について異なる議論の道筋を経てきたアメリカ人は特にそうだが、バチカンに通じていない一般人は、バチカンの対話を自分の望みに合わせて解釈しないよう注意するべきだ。しかし、比較的曖昧な文書ではあるものの、報告書に対する今回の関心の高まりは、人々が実際に司教のグループの行動を気にしはじめたという変化を示している。

 

多くの人々にとっては、このこと自体が大きな変化と言えるのかもしれない。

 

 

タイム誌のWeb記事から。

欧州各地やアメリカの一部の州で同性婚が認められた事に対して、カトリック教会はどう対応するのか。結婚を認める法律は国や地域内部のローカルな問題ですが、世界中に信者を持つカトリック教会にとってはグローバルな問題でしょう。そう簡単に教義を変更するとも思えませんが、どう対応するのでしょうか。もし、カトリック協会側がなんらかの対応をすれば、その影響は世界中のカトリック信者に及ぶことになります。そうなれば、世界中でこの問題が議論になるわけです。

日本では、まだまだ対岸の問題という感じですが、人権や宗教の自由に関するグローバルな観点からの問題になれば、そうも言ってはいられなくなるでしょう。この問題は、今後数年間のうちに、ますます大きな問題になりそうです。2016年のアメリカ大統領選挙でも、おそらく大きな問題として取り上げられることになるのでしょう。