ONEDOG:壁打翻訳手習帳

手習い故、至らぬところは御容赦。更新は、Twitterアカウント @0ned0g でお知らせします。

「アメリカン・スナイパー」に関する醜い真実

批評家はこの映画を政治的ではないということにしたいようだが、そういうわけにはいかないだろう。クリント・イーストウッドのこの映画は、イラクイスラムに対する曲解を示している。

 

「アメリカン・スナイパー」に関する議論が巻き起こっているが、この映画を支持する人々は、この映画は政治的なものではなく、戦争賛美や人種偏見を描いたものと解釈されるべきではないと主張している。つまり、苦悶する兵士の人物描写にすぎないのだと。この見方には問題がある。この映画の焦点は、心的外傷後ストレス障害PTSD)に苦しむ兵士達ではないし、一般市民の生活を再び取り戻す困難でもなければ、退役軍人管理局の至らなさでもない。

 

この映画はクリス・カイルを描いたものだ。彼は、自分の仕事は「楽しい」ものだと言ってのけた冷酷なスナイパーであり、もっと戦うためにイラクに戻れたらと願っていた。そして、自身の手柄について本を書くことで大金を稼ぎ世界的な名声を得た男だ。帰還兵と彼らに対するケアについて話を聞こうとするのなら、カイルに話を聞くのは最悪の選択であることは間違いない。イラクでの経験についての彼の文章や話に接すれば、あの戦争は彼の人生で最良の出来事だったと思うだろう。

 

クリント・イーストウッド監督は批評に対して、彼自身はイラクとの戦争に反対であり、アフガニスタンでの戦争に関しても懐疑的だと述べている。しかし、これは、戦争は正義であり楽しいものであると考える兵士を映画の題材に選んだ言い訳にはならないだろう。また、映画中のイラク人を、無力な市民か、残忍なテロリストのどちらかとして、ただの小道具のように描いたことの言い訳にもならないだろう。また、イラク侵略はテロに対する報復だったと印象づけるような、映画中における9・11映像の使い方を正当化するものでもない。これは、戦争支持者が用いてきた歴史の通俗化だ。イーストウッドが戦争に対して批判的であるというのなら、観客に戦争に対する疑問を問いかけることがないような映画を作るために、彼は自身の信念を放棄したというようにも見える。

 

イーストウッドの意図がどうであれ、この映画に対する最大の酷評は、この映画がどのように受け止められたかということ自体だ。「アメリカン・スナイパー」でのクリス・カイルの人物像を批判した人々は、殺害の脅迫を山ほど受け取っている。また、この映画によって、ソーシャルメディア上では反イスラムの偏見が溢れかえることになった。

 

インタビューでクーパーは、この映画は政治的なものではないし、戦争賛美や人種偏見と解釈されるべきではないと主張している。

 

「米国はイラクに行くべきだったのか、あの戦争は戦うに値するものだったのか、米国は勝利したのか、何故米国は未だにあの地域にとどまっているのか。こうした問題について政治的議論をするにしても、この映画を議論のための道具にはしないでほしいというのが、私の願いだ」とクーパーは、カイルの気性に対する批判について聞かれて、答えている。「私やクリントにとってこの映画は一貫して、兵士にとって苦境にあるとはどういうことなのかということについての人物描写なのだ。私が長い時間をかけて読んだり見たりした資料、ホームビデオも含めてだが、それらを通じて私が知ることとなったこの人物に、戦争賛美や人種偏見は全く認められなかった。この映画は戦争に関する政治的議論ではない。むしろ、現実とは何かということに関する議論だ。そして、兵士は帰還してきており、彼らに報いなければならないというのが、現実なのだ」

 

この映画は非政治的なものだというが、「アメリカン・スナイパー」は政治的正当性に関する議論の焦点となっている。FOXニュースは長い時間を割いて、この映画を擁護し批判に反論する番組を放送した。サラ・ペイリンビル・オライリーラッシュ・リンボーは、皆クリス・カイルの名声の擁護に回った。

 

ハート・ロッカー」、「グリーン・ゾーン」、「告発のとき」、「人生は、奇跡の詩」といったイラク戦争を題材にした数多くの他の映画とは違う方向で、この映画が政治的に偏ったものになったことには、おそらく理由があるだろう。イラク紛争を描いた他のメジャー映画の大半とは違い、「アメリカン・スナイパー」はカイルの行動のモラルを賞賛するよう求めている。あの大規模な戦争がどんなに愚かなものであれ、カイルは善の権化であり、カイルが戦った何百人もの敵は悪の権化だ。

 

この映画が広く公開されたのは、パリでのテロ攻撃が起きイスラムに対する反感が再び高まってからわずか数週間後のことだし、丸腰のアフリカ系市民に対する警官の一連の発砲があり米国における国家暴力がきびしい詮議の対象となってから数ヶ月後のことだ。政府によって代表されるこの国は、浅黒い肌の人々の軍隊や誤った考えを持つ他国の集団に対抗する善なる強い力であると考えたい人々に、この映画は誇りを取り戻させる。他の映画のようにモラルをめぐる厄介な問題を取り上げても、それは興行成績があがる題材ではない。

 

一番問題なのは、アメリカ兵士の悲劇的な窮状について議論を喚起することも、この映画はできたはずだという点だ。この国は帰還兵を十分に処遇していない。障害者の割合は全人口においては14%だが、退役軍人では27%に上る。フードスタンプ支援を受けている世帯の6%は退役軍人を抱えている。退役軍人のホームレスが常に約5万人いると連邦政府は推算している。

 

しかし、カイルはこうした退役軍人とは違う。彼は従軍経験について執筆して大金を稼ぎ、戦線復帰を望んでいた。彼は、コナン・オブライエンとテレビに出演し、大規模な巡回教会講演を行うスターだった。彼の家族は本の印税を退役軍人組織に寄付すると約束したが、実際にはたった2%しかこれまで寄付していない。テキサスのカージャック犯やハリケーン・カトリーナでの略奪者を撃ち倒したというほら話をカイルはでっち上げたが、武装自警行為は違法であるという事実にもかかわらず、どちらの件についても彼は咎めを受けていない。

 

カイルの一生の物語は、ポスト9・11時代の軍隊生活を、倫理的にもやましいところなくエキサイティングで魅力的なものに見せかけようと作り上げられたものだ。肉体的損傷、ホームレス化、失業、金銭的にも報われない死といった、この戦争の14年間にわたって軍人が堪え忍んできた現実の恐怖とはかけ離れている。

 

イラクの人々に関していえば、イーストウッドは、おそらくカイルの記憶に極めて忠実に、単純に劇画化して描いている。「アメリカン・スナイパー」を含めて、イラクの人々に対する戦争の影響について目を向けた映画は皆無である。

 

2006年、イーストウッドは『父親たちの星条旗』に引き続き、『硫黄島からの手紙』を監督し、日本側からの視点を提示した。知る限りでは、侵略と占領を受けて武器を取ったイラク人側の立場を示す映画をイーストウッドが計画しているという話はない。彼がどんな理由をつけようと、結局それは政治的な判断であることは間違いない。であれば、彼はこの映画を擁護しようと論じる人々と同列の立場に立つことになる。日本帝国軍は数多くの人々をいわれもなく殺したにもかかわらず、今日では、保守的なアメリカ人が安全に対する最大の脅威と見なすイスラム反乱軍を描くよりも、日本軍を人間的に描くことは政治的にずっと無難であるというだけの話だ。

 

「アメリカン・スナイパー」には多くのものが含まれている。おそらくはオスカー賞を狙う上でも、イーストウッドの監督としての技量とブラッドリー・クーパーの役者としての才能は、受賞に値するだろう。しかし、アメリカがイスラム諸国での戦争を続け、アメリカの退役軍人とイラクの人々にとってイラク戦争がなんであったのかということを厳しく見つめ直すことを拒みつづけるなら、この映画が政治的ではないとは誰も言えない。

 


映画『アメリカン・スナイパー』予告編 - YouTube

 

日本でも先週公開になった「アメリカン・スナイパー」を見てきましたが、アメリカではこの映画をめぐって議論が起こっているということで、どんなことが論じられているのかと思い、論評の一つを読んでみました。ここで論じられていることは、あの映画で描かれていたことではなく、あの映画で描かれていないことを挙げて、そこが描かれていないから間違っているという論法です。その意味では、決して良い映画批評ではないし、個人的にも余り賛成できないのですが、こんなことが議論されているのかという意味では興味深く読みました。