ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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フェイスブック、裸体画を検閲、不可逆な変化につながる可能性も

4年前,あるフランスの教師が、ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」の写真をフェイスブックに投稿しようとした。この絵は世界的によく知られており、オルセー美術館に展示されている。しかし、女性の秘所がクローズアップで描かれているため、フェイスブックの管理人は投稿を削除した。

 

フェイスブックによる削除を受けた教師は、自分と同じフランス人であるクールベに対して当然擁護的だった。「世界の起源」を削除するというフェイスブックの決定に対して、彼は実際に訴訟を起こした。注意したいのは、彼が訴えたのが、アメリカの法廷ではなかったということである。アメリカの法廷は、内容の節度について自由放任主義をとりながらも、「猥褻」に近いものにはなんでも冷たい態度をとる。だが、彼が訴えたのは、フェイスブックのサービス規約には訴えることはできないと明確に記されている、フランス、パリの法廷なのだ。

 

木曜日、裁判所は訴えを受理した。この予期せぬ受理を持って、すでにこれは勝訴だという者もいるくらいだ。

 

芸術や裸体画、あるいはクールベについてどう考えるのであれ、注意しなければならないのは、この訴訟は、アメリカのソーシャルメディア企業とその節度に関するポリシーに対して大きな意味があるということだ。この件に関して司法管轄権があると主張することで、フランスの裁判所はフェイスブックがフランスの法に従わなければならないと言っているのだ。取り下げ依頼や裁判での命令といった実務的なことだけではない。裸体画といった細かい問題についても、フランスの法に従うことを求めているのだ。そこには、当然、裸体画が提起するモラルなどの問題も含まれる。

 

これは多くの理由で厄介だ。まず最初に、フェイスブックはフランスで大量の訴訟への対応を余儀なくされる。しかし、クールベの絵画を投稿したこの教師が検閲と表現の自由のために告訴をおこなったのだとしても、フェイスブックは倫理ポリシーの問題を俎上に挙げることは避けるべきだろう。

 

フェイスブックのポリシーは不完全なことで知られている。先週も、フェイスブックは、何枚かの中世絵画が「不快」であるとして、NYのアート評論家ジェリー・サルツが新たな投稿をできないようにした。以前にも、フェイスブックはニューヨーク・アカデミー・オブ・アートからポンピドー・センターにいたるまで幅広い機関の作品を検閲している。(猥褻性、残虐性、暴力性のある非芸術的表現についてまでは立ち入らない。以前にも、それはそれで少々議論があった。)

フェイスブックは、こういった問題に対処するために「コミュニティ・ガイドライン」を定めている。しかし、このガイドラインは数千人の管理人により運用されており、その一人一人の基準は往々にしてばらついている。そして、このガイドライン自体が、ピューリタン的には逸脱していると考える人もいる。洗練された平均的フランス人以上に進歩的な、多くの変わったユーザーを掴もうとしているというのだ。フェイスブックが成長するにつれて、この両極の間の距離は広がるばかりだった。ライターのアドリアン・チェンは、これを「おばあちゃん問題」と呼んでいる。確かに、四文字言葉を連発するやんちゃな10代と、彼らの優しく保守的な祖父母の両方にアピールしなければならないWebサイトを運営するというのは、解決不可能な問題に思える。

 

NYの芸術評論家サルツは検閲的なフォロワーによってフェイスブックに通報されたが、明らかに彼も「おばあちゃん問題」の犠牲者だ。「この数ヶ月というものは、芸術界の保守主義や道徳主義との衝突だった」と彼はこぼしている。

 

もちろん、この状況では誰も完全に満足できない。これは、すべてのソーシャルネットワークの核心に関わる困難な妥協だ。フェイスブックは基本的に、できるだけ怒る人が少ないと思われる倫理コードを、まずは採用せざるを得なくなり、やがては強制する。その結果、倫理コードは曖昧なものになる。例えば、フェイスブックは裸体について、「ユーザーが個人的に重要な内容をシェアする権利を尊重したいと願っている」と述べているにすぎない。

 

2012年時点での具体的な説明はこうだ。「陰部」はダメ、「性行為」はダメ、裸のイラストはダメ、「芸術的な裸」はOK。しかし、「芸術的な裸」の正確な定義はどこにもない。そして、フェイスブックは、管理者が現在使用しているガイドラインを共有することも、詳しく説明することも、拒否している。

 

このフェイスブックのシステムはいい加減で不公正だろう。フランスでの検閲問題もユーザーをさらに戸惑わせるだけだ。今のところ、節度違反の対象を決めるのは最終的にフェイスブック自身だ。シリコンヴァレーに本社を構え、アメリカの法の下にある同社は、サイト上のユーザーの行動や発言に認められる自由の範囲について裁量を持っている。

 

(明らかにそうなのかどうか分からないが)性器のクローズアップがたいしたことではないという、フランスのような欧州の進歩的な国においては、これはもどかしいことだろう。だが、世界の大半の国では、内容の節度についてフェイスブックが最終決定権を持っているというのは、異議申し立てや表現の自由に対して極めて深刻な事態なのだ。クールベの絵の投稿により光が当てられたこのもう一つの側面には、おそらく、フェイスブックが力を持ちすぎたと考える人々,フェイスブックが保守的だと考える人々等々、様々な人々が関心を示すだろう。しかし、サイトのポリシーを現地の政府に監視させるのは、総合的に考えて、さらにリスクが高いのではないか。


誤解のないよう繰り返すが、パリ裁判所はクールベの件について申し立てを受理したにすぎない。審理は5月まで始まらない。しかし、フェイスブックを巧みに統制下におくことも可能だろう。先週、原告の弁護士は、この裁判闘争は強力な先例を作ることにもなる、と笑みを浮かべながらメディアに語っている。

 

おそらく、この一連の騒動を通じて、フェイスブックは内部での倫理規定見直しを迫られるだろう。アメリカ自由人権協会は、訴えに対する対応の仕方を改善するようフェイスブックに対して呼びかけている。ユーザーが状況の重大さを説明し、誤りを犯した管理人に訂正を求めることができる手段を,フェイスブックに対して求めているのだ。倫理規制プロセスを標準化することが、フェイスブックには長い間求められてきた。皮肉交じりにあるライターが提案したように、裸体画蔵の検閲者は芸術理論の速習授業を受けることもできるだろう。

 

サルツには簡単な答がある。誰かがフェイスブックのページで攻撃してくるなら、フォローワーを解除すれば済むことだ。

 

だが悲しいことに、激怒に駆られたインターネットユーザーが、そんな分別のある道理に従うことはまずないのだ。

 

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インターネットは簡単に国境を飛び越えますが、ネット上の法は誰が決めるのか。インターネットの初期から繰り返し問題になってきましたが、フェイスブックが巨大化したことで改めて問題が顕在化したということでしょうか。フェイスブックに対する訴訟は日本でも起こされているようです。 

 

Uberもそうですが、フェイスブックなどの新興インターネット企業は、半ば確信犯的に、半ば実際の規制の困難さを見越して、ルーズな対応をしている気がします。しかし、ここまで大きな存在になると、社会的な圧力も高まり、そうも言ってはいられなくなるかもしれません。