ONEDOG:壁打翻訳手習帳

手習い故、至らぬところは御容赦。更新は、Twitterアカウント @0ned0g でお知らせします。

ビッグデータの見方を画家に学ぶ

 

昨年から、ニューヨークのアルベルト・アインシュタイン医学校の科学者は、別の大学の専門家と共同研究をおこなっている。その専門家とは、ダニエル・コーン。彼はブルックリンを拠点とする画家であり、コンセプトアーティストでもある。

 

コーンは、コンピューターや遺伝学についてバックグラウンドを持っているわけではないし、アートセラピーのクラスを受け持つのでもない。彼の役割は、21世紀という時代を画する問題といえるビッグデータの氾濫について、科学者を手伝うことだ。

 

コンピューター技術の進歩により、抽象的で解釈困難なデジタルデータが溢れかえることになった。こうしたデータから、意味のあるパターンを直感的な方法で見いだすことは困難だ。この混沌の中になんらかの秩序を見いだすために、データアナリストはデータを表現する方法を絶えず再考しなければならない。そこにコーンの役割がある。彼は10年間に渡り科学者と共同作業をおこなってきており、どうすれば有用な問題提起をおこなえるか、熟知している。彼の質問はこんな具合だ。データを横向きにしてみたらどうか?上下反転させてみたらどうか?プロットしたデータの一点をクリックして、別の次元から見たらどうか?

 

「彼の指摘に価値があるのは、我々が慣れ親しんだ考え方を揺さぶり、データを新しい方法で表現することが可能だし、そうするべきだと気づかせてくれるからです」と、アルベルト・アインシュタイン医学校エピゲノミクス・センターのディレクターであり、コーンを招聘したジョン・グレアリーは言う。

 

「今問題なのは、生物学のデータはしばしばデジタル化されて抽象的になっていることです。そして、研究者は、重要なことをつかむ直感を身につけて、統一的に全体を把握する必要があるのです」と、グレアリーは加える。

 

気象予測、テロリストの特定、経済予測など多くの分野でも、事情は同じだ。情報はすべてそこに、巨大な山のように横たわっている。足りないのは、そこに山道を見つけ出す登山者の直感であり、パターンと意味の手がかりを見つけ出すための人間の第一印象なのだ。しかし、そうした創造的な直感力を、体系的に身につけることが可能だろうか?もし可能だとしても、身につけるには長い年月が必要なのではないだろうか?

 

少なくとも高次のスキルに関していえば、それは可能だとも不可能だともいえる。だからこそ、データに溺れそうになっているアナリストは楽観的になることもできる。

 

余り知られていない心理学の一分野である知覚学習を専門とする科学者によれば、航空機を操縦するような実際的な分野でも、高度な化学式を読み取るような学問的な分野でも、人間の直感把握をスピードアップすることが可能だということが示されている。一瞬の判断が必要なコンピューターゲームのような装置を使えば、特定の認識能力を高めることができる。訓練を積めば、対象にあった鑑識眼が養われ、意味のあるパターンを読みとる能力も自然と高まることになる。

 

我々は自分に備わっていることを忘れているが、知覚学習能力は人間の基本的な能力だ。文字を読めるようになるまでは、この能力を用いて、「U」と「V」のような似た文字を判別することを我々は学んでいたのだ。AシャープとBフラットを(表記としても、音色としても)判別するのにも、スピーディーなビデオゲームで味方の暴徒と敵の暴徒を見分けるのにも、この能力が必要になる。センテンスを把握し、メロディーを聴き取り、ゲームの知的な要素をつかむことができる段階になると、与えられた情報を大きな一塊としてまとめることができるようになり、こうした判別を確実におこなえるようになる。だが、それが最初はどれだけ大変だったかということを、我々は忘れてしまっているのだ。

 

にもかかわらず、我々の知覚学習能力は失われはしないし、訓練することも可能だ。新しいことを学ぼうとするときには、我々はいつでも知覚学習能力を利用している。例えば、別のソフトウェアを使うときにも、国中を移動して地域の植生の違いに気がつくようなときにもだ。視覚や他の感覚で、こうした確かな違いを知覚的に判別できるようになれば、知識を活用することに専念することができるようになるのである。

 

こうした知覚学習の優れた点は、それが反射的なものだということだ。なんの思考もそこには介在していない。知覚学習分野の創始者であるエレノア・J・ギブソンは、1969年に、「我々は見つめるのではなく、ただ見る。耳を傾けるのではなく、ただ聞くのだ」と記している。「外部からの強制を必要とせずに修正がおこなわれるという意味で、知覚学習は自律的である。必要とする情報を最小限の量で取り出すという目標のために、知覚学習は刺激主導なのだ」

 

この言葉は非常に示唆に富んでいるので、噛み砕いてみよう。知覚学習そのものが能動的なのである。我々の目などの感覚器官は、常に正しい手がかりを探している。だから当然、特別な手間は何もいらない。もちろん、注意を向ける必要はあるが、システムを起動したり調整をする必要はない。知覚学習能力は、知覚学習能力自身を修正するので、調整が施されている。脳は、もっとも意味がありそうなイメージや音を見つけようと機能し、それ以外は切り捨てる。

 

現実世界で、これはどう考えられるだろうか。

 

飛行機の操縦を学ぼうとする者は、実際の飛行や教室の授業で何百時間もかけて、方向感覚を失う経験や時には恐ろしい経験を経なければならない。飛行機操縦教習の多くの時間は、いかに操作パネルを読みとるかということに費やされる。1980年、ギブソンの研究を学んだ認知科学者フィリップ・ケルマンは、もっと良い方法、もっと早く学べる方法はないものかと考えた。計器パネルの指針盤は、一つ一つを読みとるのは簡単だ。しかし、すべての指針盤を一度に一目で読み取るには、まったく別のスキルが必要なのだ。それは、論理思考力ではなく、むしろ反射能力や直感力の問題なのだ。

 

ケルマンはビデオゲームのような練習を設計した。生徒はパネルを見て、指針盤が総体として示している状況を素早く判断する(飛行機によって5個か、6個の指針盤がある)。パネルの下のコンピュータースクリーンには、「垂直上昇」、「下降旋回」、「水平旋回」といった7つの選択肢がある。答が正しければチャイムの音が鳴り、答が間違っていればブザー音が鳴り、正解の選択肢が点灯する。そして、スクリーンは切り替わり、計器パネルも別の表示になる.これが繰り返される。この一連の訓練は速いペースで進み、フィードバックは即座に与えられる。

 

現在はUCLAの教授であるケルマンは、1994年に、この知覚学習装置をアマチュアパイロットに対して試してみた。1時間の訓練後には新米のパイロットが、1000時間の飛行経験を持つ平均的パイロットと同等の正確さと素早さでパネルを読み取ることができるようになることを、彼は発見した。ほんのわずかな時間で、少なくとも地上のテストにおいては、同等の読み取りスキルを新米パイロットが身につけたのだ。ケルマンは言う。「言うまでもなく、飛行機を実際に操縦する訓練をつまなければならない。しかし、計器を読み取るときに、考えをめぐらせるために一呼吸しなくて済むなら、ずっと楽なはずだ」

 

ケルマンらは、本能的な反射力を短時間で養成するこの手法を、皮膚病学、化学、心臓病学から手術にいたる複雑な分野にまで広げて活用してきた。

 

バージニア大学の最近の実験では、胆嚢除去について学ぶ医学生の訓練に知覚学習装置が用いられた。以前には医師は、腹腔を長く切り開腹手術をおこなって、胆嚢を除去していた。しかし、1980年代から、小さな切り込みを入れて、腹腔鏡と呼ばれる細いチューブを腹腔に通すことで、多くの医師が手術をおこなうようになった。腹腔鏡には小型のカメラがついており、このカメラが送ってくる画像を見ながら、外科医は腹腔内を調べていく。医師がこの画像を見誤れば、さまざまな損傷を腹腔に与えることになる。この手術スキルを身につけるには、通常数百時間の腹腔鏡観察下での手術経験が必要となる。

 

学生の半分は、実際の手術の短いビデオを再生し、どの段階の手術の映像なのか即座に判断を下さなければならないコンピューター装置で訓練をおこなう。他の半分の学生は、いわゆる(対照実験の)コントロールグループであり、必要なら巻き戻して、望むだけ同じビデオを視聴する。練習時間は30分間与えられる。手術手続きの知識を試す最終試験では、知覚学習をおこなったグループが、これまでは同等の経験があったはずの他半分のグループに4倍の得点で圧勝した。知覚学習をおこなったグループの反射反応の方が、はるかに優れていたのだ。

 

知覚学習に重きを置いて学習することの限界や欠点は知られていない。もちろん、この訓練はある分野における専門性を身につける上での補完的な訓練であって、代替物となるものではない。いくらビデオゲームをプレイしたところで、実際に飛行機を着陸させたり、生きた人間を手術しなければならない。

 

しかし、知覚学習はまやかしではない。UCLAの医学部は、心電図の読み取りや発疹の診断、生体検査における組織サンプルの解釈といったスキルを磨くために、標準的なカリキュラムの一部として知覚学習装置をを採用した(発疹には、素人目には区別がつかないような様々な種類がある)。すぐに異常を見分けられるようになるということがポイントだ。こうした学習装置は、判別を確実におこなうことが求められる学習分野や専門分野ならなんでも、同様に適用することができる。ひし形か、台形か?オークの木か、カエデの木か?この漢字の意味は、「家族」か、「家」か?この直線の傾きは正か、負か?知覚学習は、こうした問題への適用が可能だろう。

 

知覚学習装置を使えば、理由は即座に説明できなくても、理由を考える必要なしに、目にしたものが何かを認識して、即座の判断を下す能力を高めることができる。


大量のデジタルデータを扱う際に最も重要な問題とは、知覚のスキルが本当に重要かどうかということではない。重要なのは、背後にある事実を導きだす役に立つ「手がかり」となるデジタルパターンの信頼できるカタログを、いつ、どんな領域において、データアナリストが構築できるのかということだ。それは、遺伝子配列の異常に関してかもしれない。低気圧地域に関してかもしれないし、円安に関してかもしれない。

 

カタログがなんらかの分野で構築されれば、デジタル時代のエル・キャピタン(かっては登頂不能と思われたが、現在はロッククライミングの名所として知られるヨセミテ国立公園にある花崗岩の一枚岩)となる足がかりを科学者は得ることになり、知覚学習技術を応用するためのプロトタイプができたことになる。それは、なんらかの分野できっと起こるだろう。テロリストの企みを防ぐことや、医療データや経済データの持つ意味を説き明かすことの重要性を考えれば、デジタルの直感を構築することは、おそらく、決定的に重要なことになるだろう。情報技術や科学を身につける人々にとっても、データに対する知覚的な第六感を養うことは、必須の訓練となることだろう。それは、天空の運行を読み取る船長や、モハーヴェ砂漠(航空会社が手放した飛行機の保管場所として知られる、降水量の少ないアメリカ南西部の砂漠)で轍を見いだすガイドと同じことだ。

 

現時点では、視覚的な創造性の専門家を研究室に招くことは、彼らがもたらすであろう刺激の価値を考えれば、非常に効果的だ。

 

電話インタビューで、画家であるコーンは語った。「私が論じたいのは、計算処理納能力が向上したコンピューターがどれほど多くのデータを解析できるかということではないし、パターン認識についてでもないんだよ。論じたいのは、認識のフレームワークとは何かということなんだ。見方がなんであれ、視覚で認識したいことがなんであれ、認識のフレームワークとは何かということなんだ。科学者は、グラフに示された視覚的なイメージを最終的な分析結果として捉えがちだ。私は、視覚的な面から、彼らに一から再考してみてほしいと思っているんだよ」

 

f:id:onedog:20150331125808j:plain

 

折りしも、群馬大付属病院や千葉がんセンターの腹腔手術が大問題になっていますが、国内ではこうした訓練はおこなわれているのでしょうか。いくら技術自体は進歩しても、それを使いことなせるようになるまで数百時間の手術経験が必要なら、それまでに一体何人の患者が犠牲になるでしょうか。そのことを考えると、この知覚学習に価値があることも分かりますが、そもそも、そんな訓練の必要な技術は本当に有用なのか?という気もします・・・。