ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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世代を超えたブルースマン、B.B.キング没、享年89歳

 

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世に倦んだ声とむせぶギターで、ミシシッピーの綿花畑から身を起こし、世界のステージ、そして、アメリカン・ブルースの頂点に立った男、B.B.キングがラスベガスの自宅で木曜日に息を引き取った。89歳だった。

 

ネバダ州クラーク郡の検視官、ジョン・ファンデンバーグが、死因はII型糖尿病による一連の小さな発作によるものと述べたことを、アソシエイト・プレスが報じている。キングはホスピスケアを受けていた。健康状態は思わしくなかったが、10月までは演奏活動を続けていた。ツアーをキャンセルしたのは、糖尿病からくる脱水症状と疲労が理由だった。

 

キングはカントリー・ブルースと大都会のリズムを結びつけて、万人がすぐにそれと分かるサウンドを作り上げた。ビブラートの揺らめきで突き刺さるようなギターの音は、身をかがめて飛び上がる動物のようだった。彼の声は、欲望、願い、そして失った愛の重みで、うめき悶えていた。

 

「自分のギターを人間の感情とつなげたかった」と、キングはデヴィッド・リッツと共著の自伝「だから私はブルースを歌う―B.B.キング自叙伝」(原題“Blues All Around Me” (1996)、翻訳出版2001年3月、ブルースインターアクションズ 社)の中で述べている。

 

だから私はブルースを歌う―B.B.キング自叙伝

だから私はブルースを歌う―B.B.キング自叙伝

 

 

演奏中、彼がギターのネックから音を絞り出すと、歌声とギターソロは渾然一体となった。彼の手は怪我でもしたかのように震え、表情は病に取り憑かれたかのような面持ちだった。大ヒット曲「ザ・スリル・イズ・ゴーン」の「まだ生きていく、でも悲しくてたまらないだろう」という歌詞のように、彼の歌う歌の多くは苦悶と忍耐の詩だった。

 

音楽史家のピーター・グラルニックがかつて記したように、キングがブルースの客層を広げることに貢献できたのは、「彼の演奏の都会性、単にブルースに限らず吸収してきた様々な影響、礼儀正しさ、新しい観客を受け入れ、その観客が反応できるなにかを与えようという意志」を通じてのことだった。

 

”B.B.”は、1940年代に成功の足がかりとして名乗り始めた名前だが、「ブルース・ボーイ」の略である。彼の仲間のブルースマンは、マディ・ウォーターズハウリン・ウルフのように、厳しく打ちのめされた人生にぴったりのニックネームを持っていた。しかし、貧しく汚れた小作人と裕福な地主に囲まれた掘っ立て小屋で生まれたにもかかわらず、彼はキングだった。

 

キングはロードツアーに出ると、最初にレコーディングした中の1曲がリズム・アンド・ブルースのヒットチャートで1951年にトップになるまで帰ることはなかった。彼は、バーやダンスホール、ナイトクラブで演奏を始めた。1956年には342本のワン・ナイト・スタンドのステージをこなしたが、それから半世紀後も年に200本から300本のショーを務め、ステージもコンサートホールやカジノのメインステージとなり、世界的な賞賛を得るまでになった。

 

彼は60年代や70年代のロックンロールファンに支持されたが、年月を経てもそのファンの支持は変わらなかった。彼の演奏は、エリック・クラプトンジミ・ヘンドリックスを始めとした当時の最も成功したロック・ギタリストにも影響を与えた。

 

2003年の公共テレビ放送でのインタビューで語っているが、サンフランシスコのロックの殿堂、フィルモア・ウエストでおこなった1968年のステージが、商業的成功のブレークスルーとなった瞬間だったとキングは考えていた。それに先立つ数年前に、エレガントなシカゴのクラブで司会にこんな風に紹介されたのを彼は覚えていた。「さあ、みなさん、豚腸も、コラードグリーン(コラードの若葉を煮付けた黒人料理)も、豚足も、スイカもお終いにしよう(注:いずれも黒人の好物とされる)。B.B.キングの登場だ!」キングは激怒した。

 

長髪の白人がフィルモアの外に列を作っているのを見て、キングはロード・マネージャーに言った。「場違いな会場を選んじまったんじゃないか?」そして、興行主のビル・グラハムが満員の観客にキングを紹介した。「皆さん、本日の主役をお連れした。B.B.キングだ!」

 

「みんな立ち上がった。涙が出たね」と、キングは語っている。「それが始まりだった」

 

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80歳の誕生日を迎えたときには、彼は優に億万長者だった。ラスベガスにマンションを構え、クローゼットには刺繍入りのタキシードとスモーキング・ジャケットが詰め込まれ、彼の名前を冠したナイトクラブ・チェーン(マンハッタン42番街の店は有名)を所有し、辛抱の甲斐あり、個人的にも音楽家としても満足を覚えていた。

 

しかし、彼の人生に渡る愛は、常にギターと共にあった。彼が何千回も繰り返した話がある。1950年代初めにアーカンソー州ツイストのダンスホールで彼が演奏していたとき、2人の男が喧嘩を始め、灯油ストーブをひっくり返した。キングは火事から逃げ出したが、30ドル出したギターを思い出した。彼は燃える建物の中に飛び込み、ギターを救い出した。

 

後で、それはルシールという女性をめぐって起きた喧嘩だったと彼は知った。その後の一生、女性の尻のような曲線を描く大きなギブソンギターの数々を、彼はルシールと呼び続けた。

 

彼は2度結婚したが、1966年以降は戸籍上独身のままである。彼自身の話によれば、15人の女性との間の15人の子供の父親でもある。しかし、ルシールとはいつも一緒だった。

 

ライリー・B・キング(ミドルネームのイニシャルは略称ではない)は、1925年9月16日に、ミシシッピ三角州地帯に位置するイッタ・ベナという小さな町の郊外にある小部落バークレアで、小作人アルバート・キングとノラ・エラ・キングの間の子として生まれた。ゴスペル聖歌の歌声、78回転のブルース・レコードが立てるスクラッチ・ノイズ、日が昇ってから沈むまで続く労働の汗、白人の暴徒により1人の黒人がリンチされた光景。それが彼の憂鬱な想い出だった。

 

1940年早くに、キングの母親は世を去り、父親も亡くなった。彼は14歳にして、自分の力で生きなければならなかった。「1エーカーの綿花畑の小作人として、月2.5ドルの手当で暮らしていた」と、ブルース研究家のディック・ウォーターマンは書いている。「作物の収穫が終わったとき、独立して最初の一年を、ライリーは地主に7.54ドルの借金を残して終えた」

 

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1941年11月、啓示が訪れた。「キング・ビスケット・タイム」という番組の放送が、アーカンソー州ヘレナにあるラジオ局KFFAで始まった。それは、ミシシッピ・デルタ・ブルースを取り上げた最初のラジオ番組で、若き日のライリー・キングもプランテーションの昼休みに耳にすることになった。殆ど独学でギターを弾けるようになっていた彼は、そのとき自分の将来の夢を見つけた。ラジオで流されるミュージシャンになることだ。

 

「キング・ビスケット」ショーに出演していたのは、黎明期のブルースマンであるライス・ミラーで、ソニー・ボーイ・ウィリアムソンという1つの名前で活動する2人の演奏家のうちの1人でもあった。従軍し、最初の妻マーサ・デントンと結婚した後、22歳になったキングは、職を求め、メンフィスにミラーを探しに出かけた。メンフィスと一帯の音楽の中心地であるベアル・ストリートは、彼の出生地から130マイル北にあった。そこはキングにとって世界の中心とも思えた。

 

その夜、ミラーは2つの公演を請け負っていた。一つはメンフィスで、もう一つはミシシッピでだ。ミラーはギャラが安いナイトクラブの方の仕事をキングに任せた。出演料は12.5ドルだった。

 

プランテーション農場でのキングの稼ぎは、1日5ドルだった。キングは、もう二度とトラクターに乗ることはなかった。

 

彼は好評を博し、またたく間に、メンフィスのラジオ局WDIAでブルースをかける売れっ子のディスクジョッキーになった。自伝で彼はこう書いている。「メンフィスに来るまでは、レコード・プレイヤーすら持っていなかった。それが山のようなレコードに囲まれて、好きなときにかけることが出来るようになった。お菓子屋にいる子供が、好きなだけ何でも食べていいと言われたようなものだ。たらふく平らげるように、レコードをかけまくった」

 

メンフィスのブルースには5つの時代がある。カントリー・サウンドのデルタ・ブルース、バレルハウススタイルのブギウギ、ジャンプ・ブルース、シャッフル、そしてゴスペルシャウトだ。キングはそれらを全て自分のものにしていた。カウント・ベイシーのビッグバンド・サウンド、ルイス・ジョーダンのジャンプ・ブルースの浮かれ騒ぎっぷり、ジャズマンのチャーリー・クリスチャンブルースマンのTボーン・ウォーカーのエレキギタースタイルといったものを、彼はレコードから吸収した。

 

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メンフィスのラジオ放送で、キングはビール・ストリート・ブルース・ボーイとあだ名されていた。それがブルース・ボーイになり、やがて「B.B.」になった。メンフィスに来てから2年後の1951年12月、キングはシングル『スリー・オクロック・ブルース』 をリリースした。これはリズム・アンド・ブルース・チャートで1位になり、15週間首位にとどまった。

 

彼は、ブルースマンが望みうる限り最大のステージでのツアーを開始した。ハーレムのアポロシアター、ワシントンのハワードシアター、そして、ボルチモアのロイヤルシアターで公演がおこなわれた。8年の結婚生活後に妻に離婚された頃には、所謂チットリン・サーキット(注:人種隔離政策時代に、アフリカ系アメリカ人の音楽家やコメディアンが興行を許されていたクラブや劇場の総称)で1年間に275回ものステージをこなしていた。

 

1960年代初めに若い黒人の間でブルースが時代遅れになった頃は、つらい時期だった。サム・クックのもっと甘いサウンドに喝采するティーンエイジャー達から、ロイヤルシアターで野次られたときのことをキングは決して忘れなかった。

 

その40年後に彼はこう言っている。「彼らはブルースを分かっていなかった。ブルースはトーテムポールの底辺みたいなもので、奴隷が演るものだと教え込まれていたし、詩の意味について考えようともしなかった」

 

キングのスー・ホールとの2度目の結婚も8年間続いたが、1966年に離婚に終わった。1969年に、彼はそれに応えるかのように、彼の最もよく知られた曲『ザ・スリル・イズ・ゴーン』をレコーディングした。これは、愛を得ることと失うことについて歌ったマイナーキーのブルースだ。元々は作曲者の一人ロイ・ホーキンスによって1951年にレコーディングされた曲だが、キングはこの曲を自家薬籠中のものとした。

 

キングの死後には11人の子供が残された。そのうちの3人が、キングのマネージャー、レベン・トニーがキングを食い物にしていると主張して、彼に対して権利を求める訴訟を最近起こしていたが、今月、ロサンゼルスの判事は彼らの訴えを却下した。

 


BB King and Eric Clapton - The Thrill Is Gone - YouTube

 

ザ・スリル・イズ・ゴーン』の成功は、丁度、若い白人の間でブルースが広まり始めたのと時期を一にしていた。フォーク・フェスティバル、大学の講堂、ロック・コンサート、リゾートクラブといったところで、キングは演奏を始め、「トゥナイト・ショー」にも出演した。

 

ザ・スリル・イズ・ゴーン』ほど大きなヒットは他に出なかったが、キングは40年以上に渡り演奏活動を続けてきていた。彼は遂に世界中で演奏するようになる。欧州や日本だけではなく、ロシアや中国でもだ。2006年9月の81歳の誕生日前後には、デンマークベルギー、オランダ、ドイツ、フランス、ルクセンブルグの9つの都市を、2週間のスケジュールで回っている。

 

特別功労賞生涯業績賞を含めて15回のグラミー賞、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星型プレート、ロックの殿堂とブルースの殿堂の両殿堂入りのみならず、キングは、ケネディ・センター名誉賞を1995年に受賞し、大統領自由勲章も2006年に授与されているが、これらはブルースを通じて授与されることは稀である。1999年、全米人文科学基金書記長ウィリアム・フェリスとの公開対談において、どのようにしてブルースを歌うようになったのかを、キングは詳しく語っている。

 

ミシシッピーのプランテーション農園で育ち、月曜から土曜の午後まで働いた。土曜の午後になると町に出かけていき、街角に腰を下ろし、ギターを弾き歌を歌った。帽子か、箱かなにかを自分の前に置いた。ゴスペルソングをリクエストする人たちは、私に対していつもとても礼儀正しく、『坊や、すごいじゃないの。頑張りなさいよ。いつか、きっとすごい人になれるわよ』と言ってくれたが、帽子には何も入れてくれなかった。だけど、ブルースをリクエストする人たちは、いつもチップをくれたし、ビールをおごってくれることもあった。その人たちは、いつもなにかしらしてくれた。土曜の午後で50ドル、60ドル稼げたこともあった。なぜ私がブルース・シンガーになったのか、これで分かっただろう?」

 

 

B.B.キングの『ライブ・イン・ジャパン』は繰り返し繰り返し聞いたアルバムでした。御冥福をお祈りします。

 

ジミ・ヘンドリックスの「ブルースっていうのは、金を稼げば稼ぐほどできるもんなのさ」という有名な言葉がありますが、最後の話はそれと同じような話ですね。きれい事ではなく、現実に金を稼いで生きることの重みがブルースには詰まっているんですね。

 

Live In Japan

Live In Japan

  • B.B. King
  • ブルース
  • ¥1600