ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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今再び、ニーナ・シモンの時代

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かつて、フェミニストの作家、ジャーメイン・グリアは、「あらゆる世代がニーナ・シモンを再発見しなければならない。彼女は、天才である女性がいることの証なのだから」と断言した。喜ばしいことに、今年こそはまさにその時かもしれない。

 

ニーナ・シモンは、死後の栄光を迎えようとしている。彼女からのインスピレーションで、3本の映画とスターが数多く参加したトリビュートアルバムが製作され、ジョン・レジェンドはオスカー賞最優秀楽曲賞の受賞スピーチで彼女に言及した。この突然のブームは、十年にわたって続いてきた評価再燃を目論む動きに続くものだ。彼女についての二本の伝記と詩集が出版され、何本かの舞台にもなった。そして、彼女の代名詞とも言うべき苦悩に満ちたコントラルトの歌声は、ヒップホップのパフォーマーによってサンプリングされた。ジェイZやザ・ルーツ、なかでも強烈だったのは、カニエ・ウェストだ。

 

広くその名をとどろかせてから50年、ニーナ・シモンは今頂点に立ちつつある。

リズ・ガルバスが監督したドキュメンタリー「What Happened, Miss Simone?」は、ニューヨークで水曜日に公開され、2日後にはネットフリックスで見ることができる。この映画はシモンが伝統を打ち破り成し遂げた融合を解き明かすところから始まる。黒人らしい深い歌声、クラシック音楽、ゴスペル、ジャズピアノのテクニック、市民権運動、ブラックパワーの音楽活動。彼女はそのすべてを融合させた。

 

彼女は、市民権運動に欠かせない曲となった”Mississippi Goddam”を作曲したのみならず、アメリカのポップアーティストの活動を評価する基準を拡大した。映画の中でシモンはこう問いかける。「アーティストなら、時代を反映していないなんてことは有り得ない。私にとって、それがアーティストの定義なのよ。」

そして、この映画の中で、シモンは音楽と政治的自由を断固として追求し、同時代の運動のために主張をおこなった歌手として描かれる。

 

シモンの中性的な歌声、ジャンルの壁を打ち破る音楽性、政治意識は、60年代や70年代のマーケティング担当重役やコンサートのプロモーターを悩ませたかもしれない。しかし、彼女の活動は、才能や活動自体こそを真剣に受け止めて欲しいと願う今日のゲイ・レズビアン・黒人・女性のアーティストに至るまで、大きな影響を与えて引き継がれている。

 

「ニーナは常に的を得ていました。彼女は、的確かつ独自のやり方で断固として行動し、あの情熱と直截さを持って主張していたからです」と、ガーバスはインタビューで語っている。「しかし、なぜ今、彼女に脚光が当たっているのでしょうか」と彼女は問題を提起し、それは余りに世の中が変わっていないからだと指摘する。そして、マイケル・ブラウン、レキア・ボイド、フレッディ・グレイら、武器を所持していなかったにもかかわらず警察に暴行を受け殺されたアフリカ系アメリカ人をその証左として挙げた。

 

歌詞における人種差別の告発、そして市民権活動組織を代弁した業績を通じて、シモンは今この時代にも通じる存在だが、2003年の死後、彼女の身近な人々はシモンについて、さらに気安く話すようになった。ガーバスは語っている。「映画製作の観点からは、彼女の再評価の一因は、彼女の遺産に対する権利の問題です。人々が、彼女の話について管理をいくらか緩めることができるようになったということです」

 

今回、シモンの娘であり、歌手で女優のリサ・シモン・ケリーが、個人的な日記や手紙、音声やビデオの記録をガーバスに開示し、彼女は映画にもエグゼクティブ・プロヂューサーとして記されている。フランスのカリー=ル=ルエにある母の家からの電話インタビューで、ケリーはこう言っている。「私の監視下で、この映画は製作されました。家族である私と夫が、アメリカ文化の中で彼女が彼女自身の言葉で思い出されるように、適切なチームを見つけ出して然るべき手続きを踏まなければ、母は忘れられたままだったと思います」

 

ケリーの言うことにも一理あるが、それだけではない。この10年間というもの絶え間なく、アルバムは再発され、これまで未公開のインタビューや曲が公開され、初公開のコンサート映像が見られるようになり、市場には彼女の作品が溢れていた。しかし、遺産として残されたものが、シモンのリバイバルを可能にもし、損ねてもいた。最後の25年間に及ぶ期間のシモンの録音マスターに関する権利をめぐっては、眩暈がするほどの訴訟が起こされており、最近ではソニーミュージックが遺産への権利から手を引こうとしているなど、状況は込み入っている。

 

だが、シモンの遺産をめぐりもっとも注目を集めた議論の一つは、シンシア・モート脚本による今年後半公開予定の伝記映画「ニーナ」をめぐるものだろう。ゾーイ・サルダナをタイトルロールに配したこの映画は、当初キャスティングについて世間から非難の集中放火を浴びたし、サラダナが肌を黒くして付け鼻をした写真がリークされると、反発はさらに強まった。結局、ハリウッド・リポーター誌によれば、映画を乗っ取られたと訴えるモート自身からの製作会社に対する2014年の訴訟により、映画の公開はさらに遅れた。

 

インスタイル・マガジンでサルダナは「自分が適役だとは思わない」と語ったが、フィルムのボイコットを求めるネット上の嘆願が騒動の中で生じたことで、シモンの政治と倫理に対する姿勢が若い世代にも深く文化的に根付いていることが明らかになったのだった。

 

監督のジーナ・プリンス=バイスウッドは電話インタビューで、2014年の映画「Beyond the Lights」において、混血の英国ポップの新星である主人公ノニ(ググ・バサ=ローが演じた)が尊敬する人物としてシモンを取り上げた理由をこう語った。「当時、ニーナは黒人であることに引け目をもたず、自分自身に誇りを持っていたし、それは「Four Women」のような曲のもつ誠意にも現れていた。だからこそ、彼女を取り上げた。そして、そのことはまさにノニが葛藤していたことでもある。彼女は男のファンタジーの対象になるよう教え込まれてきたからだ」

 


Nina Simone: Four Women - YouTube

 

しかし、プリンス=バイスウッドにとって、シモンは、過剰に性的魅力をアピールするべく作り上げられた今日の女性アーティストの単なる代用品ではなく、社会の動きの中でせめぎ合う複雑なアイデンティティのありようにもっともぴったりあう偶像だった。プリンス=バイスウッドは言う。「”Black Lives Matter”運動が起きる今、人種のプライドが再び問題となっていますが、それと同時に、ここでは黒人女性こそが最前線に立っているのです」

 

90年代初期にマルコムXに対する関心が再び高まったように、シモンの肖像もまた新たな国の危機に際して浮かび上がってきた。しかし、黒人であることに誇りを持ちつつ、アフリカ系アメリカ人としても、当時の女性アーティストとしても、音楽的・性的・社会的な慣習を頑として拒んできたことで、彼女の一生は複雑なパイオニアというべき様相を呈している。

 

本名ユニース・ウェイモンとして1933年に生まれ、シモンはノースカロライナ州トライロンの人種隔離地域で育った。3歳にして、彼女の母親がお気に入りの教会聖歌隊のゴスペル賛美歌をピアノで弾いていた。8歳になると、彼女の才能は注目を集め、母親の白人の雇い主がクラシック音楽レッスンの費用を一年間提供してくれたほどだった。一流のクラシックピアニストになることを決意して、シモンは1年間ジュリアード音楽院で勉強する。そして、フィラデルフィアのカーティス音楽学校へ志願するが入学を拒否される。この拒否に傷ついたことが、彼女の一連の改革に向けた行動につながっていく。彼女は名前をニーナ・シモンと変え、アトランティック・シティのナイトクラブで演奏をし、ジャズのスタンダード曲をレパートリーに加えていった。

 


Nina Simone: I Loves You Porgy - YouTube

 

1959年、シモンのデビューアルバム“Little Girl Blue”からは、彼女唯一のトップ40ヒット曲“I Loves You, Porgy”が生まれることになる。さらなる音楽的キャリアを求めて、シモンはニューヨークに戻り、そこで活動家でもある作家たち、ロレイン・ハンズベリー、ジェイムズ・ボールドウィン、ラングストン・ヒューズ 、マルコムXらと交流をもつ。こうした政治的な親交や市民権運動の高まりに影響を受け、シモンは1964年に“Mississippi Goddam”を作曲することになる。この曲は、前年に起きた2つの事件、市民権運動家メドガー・エバーズのミシシッピでの暗殺と、アラバマ州バーミングハムで4人のアフリカ系アメリカ人が殺された教会爆破に触発されたものだ。この曲には彼女らしさが一番出ている。ショー向けの曲でありながら、痛烈な人種問題への批評と悲劇を予言する警告が、当て擦りとして一つに混じり合っている。

 

ああ、この国はどこも嘘だらけ
あんたたちも死んでしまう、蠅のように
もうあんたたちを信じない
あんたたちは言い続けるんだ
「慎重に、慎重に」と

 


Nina Simone - Mississippi Goddam - YouTube

 

シモンが政治的活動にのめり込んでいったことで、音楽のみならず私生活にも影響が出た。シモンはバイセクシャルだったが、もっとも長続きしたロマンスは、彼女のキャリアを60年代の大半に渡ってマネジメントした元警官のアンディ・ストラウドとの波乱に満ちた結婚だった。ストラウドは暴力や性的虐待をおこない、シモンの活動や交友を制限し、シモンの予測不可能な感情の爆発をコントロールしようとした。不幸なことに、シモンの「気まぐれさ」が双極性障害と診断されるのは、それから20年後のことだった。シモンは結婚生活からも母国からも離れて、リベリア、スイス、そしてフランスに移り住んだ。(映画の中で、娘のケリーは、シモンが自分に対していっそう病的になり虐待を行うようになったので、父と一緒に帰国しなければならなかったと言っている)

 

シモンは、“To Be Young, Gifted and Black”のような曲でストークリー・カーマイケルやブラックパワー運動と手を結び、ますます攻撃的になっていったが、アメリカのレコード会社との契約を続けることが次第に困難になっていった。彼女はこの時期を振り返って、1991年の回想録“I Put A Spell on You”でこう語っている。「抗議の時代は、私にとってだけではなく、全ての世代、音楽においても、政治の世界と同様に過ぎ去ってしまった。偉大な才能を持つ人たちは死んでしまうか、追放されてしまった。そして、彼らがかつていた場所は、三流の模倣者に占領されている。」シモンは2003年にフランスの自宅で亡くなった。

 


Nina Simone - To Be Young, Gifted and Black ...

 

ニーナ・シモンは、他の誰よりも、自分の芸術を武器として抑圧に抗議した。そして、その代償も支払うことになった。」とアーネスト・ショーは語る。彼は、昨年、マルコムX、ジェイムズ・ボールドウィン、そしてニーナ・シモンを、ボルチモアにある家に壁画として描いた芸術家だ。そこは、フレディ・グレイが逮捕された場所からたった2マイルしか離れていない。

 

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今日、シモンの多様な側面をもつアイデンティティのあり方は、人種、ジェンダー、性的平等といった現在の動きを一つにしたいと願う若者の思いを捉らえている。

 

それこそが、ジェフ・リーバーマン監督のドキュメンタリー“The Amazing Nina Simone”で訴えられている最も重要な点だ。この映画では、シモンの家族、仲間、学者に対する50以上のインタビューが収録されており、この秋遅くには公開される予定だ。

 

リーバーマンによれば、彼は、舞踏家キャサリン・ダナムのただ一人の娘であり元モデルのマリー・クリスティン・プラットとシモンの関係について調べたかったのだという。「多くのゲイの男性やレズビアンは長い間ニーナ・シモンに引きつけられてきた。シモンは彼女が属する様々な世界でもアウトサイダーであって、時に悲しげで、あるときは孤独だったが、常にぶれることはなく、自由を求める闘争においては断固とした態度だったからだ」

 

しかし依然として、シモンに対する関心の大半は、彼女の人生よりも彼女の音楽に対して向けられたものである。最近のアルバムでシモンの曲をカバーしたアーティストは、明らかにお互いかけ離れている。例をあげれば、南部のゴスペルパンクバンドAlgiers、実験的ポストパンクバンドXiu Xiu、ネオソウル・ネオファンクのアーティストMeshell Ndegeocelloといった具合だ。彼らがシモンの曲を共通して取り上げているという事実は、シモンの音楽がいかに人種、ジェンダー、ジャンルを超えているかということを物語っている。

 


Xiu Xiu - Don't Smoke In Bed - YouTube

 

しかし、かつてシモンが「少なくとも私にとっては、音楽を破壊した」ジャンルだと語ったヒップホップこそが、他の何よりもシモンを今の時代に結びつけてきた。

 

シモンの音楽を現在どこででも耳にするようになったことに、もっとも貢献した2人のアーティストは、カニエ・ウェストローリン・ヒルである。ウェストは、“Bad News”、“New Day”、“Blood on the Leaves” といった曲で、シモンをサンプリングして、ヒップホップらしく、ポップで親しみやすい形でシモンを扱ってみせた。ウェストはシモンについて語ろうとはしないが、誤解からの反逆ではないのなら、彼もまた論争を起こす存在であろうとしている。つまり、彼は、音楽的技巧と同様に、芸術的ジャンル分けを拒否することにおいても評価されたいと願っているということだ。

 


Kanye West - Blood on The Leaves (Lyrics) - YouTube

 

ヒルは、1996年のフージーズの曲“Ready or Not”でシモンに触れており、歌の中でシモンに言及した最初のラッパーの一人だ。そして、“What Happened, Miss Simone?”と結びつけられた7月10日発売のアルバム、“Nina Revisited: A Tribute to Nina Simone”にも、彼女はいくつかの曲を収録している。

 


The Fugees - Ready or Not - YouTube

 

ヒルの元マネージャーであり、ガーバスの映画のプロデューサーでもあるジェイソン・ジャクソンは、“Nina Revisited”に自信を持っている。このアルバム製作に関わっているときに、ヒルは彼にこう言ったそうだ。「私はニーナ・シモンを聞いて育ったんだから、彼女がそうであったように、誰でも自由に思ったことを言えば良いと思っているわ」

 

パラドックスになるが、シモンの復活は同時にシモンのような存在の不在も明らかにした。ディアンジェロ、J・コール、キラー・マイクといったわずかな例外を除けば、大半のポップアーティストは、ミズリー州ファーガソン、ニューヨーク、ボルチモアで起きた警官の暴行事件について、音楽の上ではほとんど口を閉ざしている。

 


I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free - YouTube

 

ジョン・レジェンドは、ザ・ルーツと共演した2010年の彼自身のプロテストアルバム“Wake Up!”でシモンの曲をカバーした。そして、米国における大量の投獄に反対するキャンペーン”Free America”を最近始めた。彼は、シモンのような存在が不在なのは、アーティストがメインストリームから離れたくないか、離れることができないからだという。「僕自身はこうしたポジションを取ることが、キャリア上の自殺になるとは考えないが、実際のところ、社会的問題について説得力のあることを本当に発言したいと思うアーティストは限られているし、大半はこうした問題に首を突っ込みたいとは考えていない」とインタビューで彼は答えている。

 

「彼女の足跡を辿るためには、頭が切れて、良心があって、コミュニケーションの能力がなければならないね。そして、ほとんどのアーティストがそれに力を注ぐことを良しとはされてはいないだろうけれど、生き生きとした知的なコミュニティも必要だね」と彼は付け加えている。

 

現在、シモンは、そのサウンドとスタイルによって、人種や性指向、ジェンダーの自由についての説得力のある実例とみなされている。アンジェラ・デイビスがアルバム“Nina Revisited”のライナーノーツでこう述べている。「彼女は沈黙を続けていた全ての女性を代弁していた。そして、比類なき彼女の芸術的才能を我々にみせてくれた。こうした活動を通じて、我々が想像もできなかった革命的な民主主義を、彼女は身をもって示してくれた」

 

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引きも切らない黒人に対する警官の暴行、最高裁判所同性婚判決など、確かに今のアメリカの社会情勢においては、ニーナ・シモンを再評価するのはまさに時宜を得ていると言えるでしょう。


彼女はヒップホップに対して否定的だったようですが、現在はそのヒップホップのミュージシャンから尊敬を集めているというのも興味深い話です。ただ、彼女の存命時からヒップホップも進化してきていますし、最近のヒップ・ホップは非常に洗練された音楽になっているので、彼女が自分をサンプリングされた曲を聴いたら、どう思うだろうか?と言うのは、興味深いところです。過去の歴史を抑えて、現在の音楽まで踏まえた、良い記事だと思います。

 

現在のミュージシャンの社会的姿勢に関する指摘も興味深い点です。商業的な判断もあるのでしょうが、根深く複雑な問題だと思います。