ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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長崎、最後の原爆

1945年8月9日午前3時47分、B29スーパーフォートレスは、北太平洋テニアン島の米軍基地から離陸した。日本の都市に第二の原爆を落とすセンターボード第二作戦が始まったのだ。だが、最初から、作戦は三日前の広島への攻撃の様には順調に進んでいなかった。あの攻撃は教科書通りであり、後に軍の歴史では「作戦遂行上、計画通り」と分類されることになる。エノラゲイは、なんの問題もなく、目的地に到着し、帰還した。そして、ハリー・トルーマン大統領の名で出された発表により、作戦成功が喧伝された。しかし、センターボード第二作戦のために選ばれた爆撃機ボックスカーは、燃料ポンプの不調で、滑空路に出てくるのも遅れた。たった一日前には、4台のB29が続けて離陸時に事故を起こし、燃料による大きな火災が生じたばかりだった。テニアン島の技術者は「飛行機が島を飛び立つまでに、我々はみな10歳年を取った気がする」と書き記している。ともあれ、飛行機は島を飛び立った。

 

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ボックスカーは、ファットマンと名付けられた5トンの原子爆弾を積みこむために、武器や兵器をほとんど搭載していなかった。離陸13分後、テニアン島時間で午前4時、兵器技師は尾翼側に行き、2つの緑の安全プラグを原爆から外して、赤の起爆プラグに交換した。これで、原爆は爆発可能になった。広島に投下された原爆は比較的ずんぐりした円筒型だったが、この原爆は巨大な卵のような形だった。直径1.5メートル、全長3.4メートルで、芥子色に塗られていた。後方部にはがっちりとした箱形の尾翼が付いており、これはカリフォルニア・パラシュートと呼ばれていたが、投下後に急回転することを避けるための設計である。原爆を組み立てた整備士チームは原爆の外側に自分の名前を書き、「あなた方への贈り物」、「裕仁への二度目のキス」といった日本人へのメッセージを書いた者もいた。原爆の先頭部には、ステンシルでJANCFUと書かれていた。これは、Joint Army-Navy-Civilian Fuckup、「陸軍、海軍、市民、まとめてくたばれ」の略だ。

 

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爆撃機は、嵐の吹く暗い空中を6時間飛行して屋久島に到着した。ここで同行する2機のB29と合流するはずだった。1機は原爆の破壊力を測定する計器を取り付けたグレート・アーティスト、もう1機は撮影機のビッグ・スティンクの予定だったが、ビッグ・スティンクは姿を見せなかった。5分後、ボックスカーとグレート・アーティストは、第一攻撃目標の小倉市に向かった。小倉市の人口は、広島の約半分にあたる17万8千人であり、米軍の作戦担当が日本最大級とみている軍需工場があった。気象偵察をおこなっているエノラゲイからは、条件は良好という電信連絡があった。

 

爆撃機の乗員は目標をレーダーではなく目視で確認するよう言命されていた。爆撃の及ぶ範囲は恐るべきものだったが、1、2マイル目標をそらすだけでも爆撃の効果が大半失われるかもしれなかったからだ。(レーダー爆撃は特にこうしたエラーに対して影響を受けやすい。)ボックスカーが午前10時45分に小倉に到着したとき、兵器技師の飛行記録によれば、乗員は軍需工場が「地上の厚い靄と煙ではっきりと見えない」ことに気がついた。長年にわたり、この運命の変化に対して三つの説明がされてきた。第一に、気象の変化である。第二に、この煙は、前日の米軍による隣接する都市、八幡への爆撃によるものだとする説である(本当なら、なんと皮肉なことか)。第三の説として、小倉の大規模な発電所に勤務していた何人かの技師が近年主張しているのは、この霞は意図的な蒸気の放出であり、B29爆撃機エノラゲイが発見されたときには常におこなわれていたというものである。この三つがすべて同時に起こっていたのではなく、どれか一つだけが正しかったとしても、小倉への目視による爆撃は遂行できなかっただろう。対空射撃が進路を阻み、45分後、乗務員は第二の攻撃目標に切り替えることを決断する。すなわち、長崎である。

 

核時代の破滅的な幕開けを思い起こすとき、我々は広島に焦点を絞りがちである。それは最初の核爆撃であり、最初の出来事は真っ先に思い出される。広島への核攻撃は長崎よりも破壊的であり、死傷者・負傷者は2倍近くに上り、破壊された面積は3倍に及んだ。(エノラゲイにより落とされた原爆リトルボーイの爆発力はファットマンの4分の3でしかないのにもかかわらずである。)しかし、軍事的見地から見て、広島攻撃は熟考され、綿密に計画され、しっかりと実行されたのに比べ、長崎の場合はほとんど正反対だった。当初から、長崎への原爆投下はJANCFUだったのだ。それは、長崎への攻撃理由と戦略の結果が示すように、この新しい時代ではエラーとニアミスに踊らされることになる兆しであった。

 

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爆撃から数年後、マンハッタン計画の責任者だったレズリー・ グローヴス中将は、長崎がいつどのようにして「攻撃目標に挙げられたのか」、正確に把握することができなかったことを認めた。長崎は、1945年4月末の17の原爆投下候補地リストには含まれていたが、5月始めには候補地から外された。長崎は、エンジンや魚雷を製造しており、重要な港ではあったが、連合国の捕虜収容所があったことが攻撃を躊躇わせた。そして、攻撃目標という観点からは、難しい地形であった。広島や小倉では、工場地帯と市街地が比較的平坦な土地に集中していた。しかし、長崎は、谷に囲まれており、山で二つに分かれ、大きく整備された中心地がない都市だった。

 

京都、広島、横浜、そして小倉が、最初に選ばれた四つの候補地であり、新潟がそれに続いた。それからすぐ、繰り返された空爆の結果を受けて、横浜が候補から外れた。米軍は、通常爆撃ですでに破壊されていない攻撃目標を選んだ。すでに攻撃を受けた瓦礫があっては、新兵器の破壊力を評価することが困難になるからだ。その後、文化的な重要性を鑑み、京都も候補から外された。残ったのは、広島、小倉、新潟だった。京都と共に、この三都市は候補地リストに加えられた。他の空爆の対象からは外され、原爆のために温存された。

 

長崎は、まったく温存の対象とはならなかった。変わることなく爆撃を受けており、ファットマンが投下されるまで少なくとも4回は爆撃を受けているし、センターボード第二作戦が始まる一週間と少し前にも爆撃を受けた。長崎は、作戦計画が決定する前日まで候補地には挙がっていなかった。1945年7月24日の爆撃命令書の草稿では、「広島、小倉、新潟を優先候補」として攻撃目標に挙げている。米国立文書館に収められたグローヴスの報告では、誰かが「優先候補」に取り消し線を引き、「そして、長崎」という追記が書き込まれている。

 

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ボックスカーはテニアン島時間で午前11時50分に長崎に到着したが、この地点まで8時間近く飛行を続けていた。機体の機械的な不調もあり、乗員は引き返すか、不時着水するかという状態に近づきつつあった。空軍基地に無事帰還する望みをつなぐには、ファットマンを海中に投棄しなければならなくなっただろう。パイロットの一人は業務日誌にこう記している。「残された燃料は2時間分以下だった。太平洋は冷たいだろうか、という考えが頭をよぎった」


長崎にも雲が立ちこめていた。その日は爆撃手の27歳の誕生日であったが、ボックスカーが長崎に向けて飛行する間、彼は雲の切れ間を探した。前もって指定された攻撃目標は三菱製鋼と三菱の兵器工場であり、谷の河口部、海の入江沿いに長さ800メートル、幅400メートルにわたり広がっていた。「見つけた!見つけた!」と爆撃手は突然叫んだ。爆撃機の操縦、原爆投下の操作は、彼の手に委ねられた。45秒後、ファットマンは投下された。ボックスカーは旋回し、原爆と差し迫った地獄絵図から距離をとった。

 


HD Historic Stock Footage ATOMIC BOMB "Fat Man ...

 

ファットマンは正午から2分後に、地上約500メートルで爆発した。三週間前にニューメキシコでおこなわれたトリニティ実験で集められた測定データによれば、この高度が(市民の住んでいた)木造家屋への破壊効果が最大になる。爆発のカラー映像がグレート・アーティストから撮影された。付近の雲が衝撃波で吹き飛ばされ、ピンク色とオレンジ色の核爆発の火球が立ち上るにつれて白くなっていく様子がフィルムには映されている。カメラマンは上下にカメラをパンして、全景を収めている。地上は死と混沌に支配されていたが、上空からはきのこ雲が見えるだけだった。

 

爆撃手は本当に攻撃目標を目視できたのだろうか?戦後の資料からははっきりしない。物理学者で後にノーベル賞を受賞するルイス・アルヴァレズは、広島への原爆投下作戦にもオブザーバーとして参加しているが、雲の合間を飛行しながらの最後の瞬間には大抵攻撃目標は「一粒の塩」のようにはっきりとせず、爆撃の精度はレーダー爆撃と同程度だと後に記している。爆心地は目標を1200メートルほど外れたが、三菱製鋼と兵器工場を破壊するには充分近く、街の別地域の魚雷工場も破壊できるくらい北にも逸れていた。

 

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しかし、原爆がこの予定外の二重の成功を収めたのは、ほとんどが市街地である地域に向けて逸れたからこそだった。1946年に作成された米軍の公式被害地図では、爆発地点を中心とする半径約900メートルの建築物が示されている。長崎刑務所、三菱病院、長崎医科大学鎮西学院中学校、城山国民学校浦上天主堂長崎県立盲学校・長崎県立聾唖学校、山里国民学校長崎大学病院、三菱長崎工業青年学校、長崎結核院、瓊浦中学校といった建物だ。米政府の戦後の見積もりによれば、4万人が死亡し、4万人が負傷した。広島への原爆投下後であり、原爆はもはや機密情報ではなかったため、米空軍は、人道的警告のみならず心理戦として、長崎市民に来たるべき衝撃について知らせるプロパガンダのちらしを作成していた。しかし、軍内部での爆撃機乗員との連絡不手際により、ちらしの配送は遅れた。ちらしが長崎の街中にばらまかれたのは、ファットマンが投下された翌日のことだった。

 

ボックスカーはきのこ雲の周囲を一周旋回した後、一番近い緊急避難基地である沖縄へと向かった。午後1時20分に沖縄に到着し、無線手は必死に着陸許可を求めた。が、返答はなかった。パイロットの一人が舷窓から信号拳銃を撃ち、地上側の意向がどうであれ、爆撃機が近づいていることを見る者へ警告した。着地は乱暴であったが成功した。(着地時に、燃料切れですぐにエンジンは止まった。)乗務員は確認報告を指揮官に無線連絡し、食事を摂った。テニアン島へは午後10時まで帰らなかった。彼らを待っている者はいなかった。写真撮影もなかった。一方米国では、原爆投下は一面を飾ったものの、ソ連の参戦と紙面を分け合う形となった。

 

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トルーマン大統領は、最初の原爆投下からこれほどすぐ第二の原爆が投下されたことに驚かされたようだった。広島における地上での被害に関する日本での報道の傍受は、アメリカの高官に漏れ伝わる程度であった。トルーマンは、7月末の日記に「軍事関連物、兵士、海兵」が原爆の攻撃対象であり「婦女子が対象ではない」と記していたが、原爆の現実に初めて直面することとなったのは明らかだった。商務長官ヘンリー・ウォレスは、彼の日誌に「さらに10万人の人々をこの世から消し去るという考えは、大統領にとって余りに恐ろしいものだった」と書いている。「彼自身が述べたように、日本人の子供を虐殺するという考えに彼は同意しなかった」とも、付け加えている。

 

長崎への原爆投下翌日、トルーマンは原爆に関して初めて肯定的な命令を発した。彼の特別承認無しにはさらなる原爆攻撃は認めないというものだ。彼は原爆投下命令を出していないが、原爆投下を止めるためにこの命令を発した。我々の歴史的記憶において、怒りに駆られて使用された最初の核爆弾として、広島が第一の位置を占めるとしても、長崎も長い目で見れば第二の原爆投下地という以上の重要な意味を持つことだろう。おそらくは、最後の原爆投下地として。

 

広島に比べると、長崎は同じ原爆投下地でありながら、取り上げられる機会は確かに少ないように思います。逆にそのためか、戦争の風化が危惧されることが多い70周年の今年は、長崎を取り上げる報道も比較的多かった気がします。新たな事実が示されているわけではありませんが、原爆投下の必要性が本当にあったかどうか、という問題の観点から見ると、この長崎の原爆投下は確かに駆け込みの実験的な側面があったことを伺わせます。その後ろめたさを自覚しているからこそ、米大統領の原爆投下地訪問が実現しないのでしょう。