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実力はもとより機知でも名を馳せたヤンキースの名手、ヨギ・ベラ没(90歳)

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ヨギ・ベラが火曜日に亡くなった。野球史上最高の人物であり捕手であった彼は、選手としてはヤンキースの中心選手として10度の優勝を果たし、監督としてはヤンキースとメッツを率いてワールドシリーズに進出した。しかし、それ以上に、彼はぎこちなくも愛嬌のある存在として広く知られ、彼から漫画の登場人物が着想され、ヨギイズムとして知られる意図せざる機知に満ちた風刺の尽きることのない源泉となっていた。90歳であった。

 

ヤンキースニュージャージー州リトルフォールズ市のヨギ・ベラ博物館&学習センターは彼の死去を発表した。2012年にウェスト・コールドウェルの近くの介護施設に移るまで、ベラは長年モントクレア近郊で暮らしていた。

 

1949年、ベラのヤンキースでのキャリア初期に、彼のマネージャー、キャセー・ステンジェルはスポーティング・ニュースのインタビューで彼のことをこんな風に評している。「ベラは、大変傑出した能力を持つ大変変わった人物だ」

 

実際その通りだったし、彼はそれを身をもって示していた。彼は単にヨギとして一般に知られていたが、おそらくこれはスポーツ界ではベーブの次によく知られたニックネームだったろう。実際のベラは必ずしもそうではなかったが、しばしばヒーローには似つかわしくないというように描かれた。15年連続オールスターゲーム出場選手だというのに、決まって実力は過小評価されていた。立派な体格で人好きのする顔だったが、外見はしばしば見くびられた。成功したリーダーどころか優勝請負人だったが、彼の知性は、あからさまに愚弄されないまでもからかいの的にされた。

 

欠けたものがあると見なされていたにもかかわらず、グラウンドで勝ってはまた勝ちまくったことこそが、彼の人気の理由だった。いささかナンセンスでありながら賢人風でもある彼の有名な発言の数々も、真偽の程はともかく、人気を博した。

 

かつて彼は自身のマネージャーとしての戦略を説明するために、「じっと見ていれば、いろいろ観察できる」と述べたと言われている。

 

スラッガーだったフランク・ロビンソンのバッティング・スタンスを真似する若い選手に、彼は「彼の真似ができなければ、真似するな」と忠告した。

 

自宅への道順を教えようとして、彼は「分かれ道に来たら、曲がれ」と言った。どの道を選んでも、曲がれば、その道の行き先にはたどりつく。

 

人気のあるレストランについて彼は、「もう誰もあそこには行かないよ。混みすぎている」と語った。

 

こうした彼のものとされる多くの発言を実際にベラが言ったのか、彼が最初に言ったのか、伝えられるとおりに言ったのかといったことについては、長い間議論されてきた。1998年にベラ自身も「ヨギ・ブック 言ったことすべてを言ったわけじゃない!」と題した本を出版している。だが、ヨギイズムは、間が抜けているが哲学っぽく、気まぐれだが地に足が付いているという、この男の特徴的な人物像を示している。

 

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ベラのヨギイズムは数々の広告でも活用され、その中にはプッスン・ブーツのキャットフードとミラーのライトビールもあるが、おそらく一番有名なのはユーフーのチョコレートドリンクだろう。ユーフー(Yoo-Hoo)にはハイフンが入っているかと聞かれたベラはこう答えたと言われる。「いえ、奥さん、炭酸すら入っていませんよ」

 

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ヨギイズムそのものではないとしても、1958年に登場した気さくなアニメキャラクターのヨギ・ベアは、ベラの名前からきているものだろう。

 

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見事な選手成績

 

ヨギ・ベラのキャラクターは、野球殿堂入りした選手としての彼を覆い隠し、彼がいかに傑出したアスリートであったかということを目立たなくさせているかもしれない。彼は、ストライクではなくともバットを振り、とにかく仕留める悪球打ちとして知られていた。チャンスにも強く、ヤンキースの圧倒的な最強時代にあって、もっとも息長く安定した成果を残した選手だった。


さらにキャッチャーとして、彼は守備の要を務めた。(指名打者制度が1973年にアメリカン・リーグに導入される前だったので、ホームベースの後ろに座り込んであれこれ仕事をするのに一息入れるために、時々外野を守ったこともある)

 

彼もまたその抜け目なさと才能をしばしば過小評価されているが、野球殿堂入りを果たしているステンゲル監督も、ベラの才能を認めていた。まだ若い選手だった頃にも、ベラを自分の助監督と呼び、ミッキー・カクレーン、ギャビー・ハートネット、ビル・ディッキーといった往年の名捕手と並べ称した。「調べておけばよかったんだ」というのが彼のキャッチフレーズだったが、実際、記録はベラが野球史上有数の偉大な捕手だったことを示しているし、最高の捕手だという人もいる。

 

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ベラの生涯通算打率2割8分5厘はヤンキースの先輩捕手ディッキーの3割1分3厘には及ばないが、通算本塁打(313本)と生涯打点(1430)ではベラが勝っている。投手たちからも彼の洞察力のある配球は賞賛されたが、アメリカンリーグの最多捕殺も5回達成している。1957年から1959年にかけては捕手として148試合連続無失策を成し遂げたが、これは当時のメジャーリーグ記録だった。

 

だが、彼も最初から守備の天才だったわけではない。ベラは、ディッキーが「彼の経験を仕込んでくれたんだ」と説明している。

 

守備面に関しては、近年最高の強打の捕手マイク・ピアッザをおそらく確かに凌いでいたろう。攻撃面では、三振の数を別にすれば、ビッグ・レッド・マシーンとして勇名を馳せた1970年代のシンシナティ・レッズジョニー・ベンチはベラに匹敵する。だが、ベラは19シーズンの8300打席でたった414三振しかしなかった。この数字はパワーヒッターとしては驚くべき少なさである。

 

カールトン・フィスクゲーリー・カーターイバン・ロドリゲスをはじめとする他の捕手も、偉大な捕手についての議論では考慮に値するだろうが、攻撃面と守備面の両方でベラを明らかに上回る選手はいない。同時代にブルックリン・ドジャーズで活躍し、交通事故でキャリアを終えるまでにワールドシリーズで6度顔を合わせたライバル、ロイ・キャンパネラだけが同じ3回のMVP受賞という点でベラに肩を並べる。1950年には、MVPこそ同僚のフィル・リズートに譲ったものの、打率3割2分2厘、本塁打28本、124打点とこの年の捕手の中でも抜群のシーズン成績を残している。

 

決定的な瞬間

 

ベラのキャリアは語り草になったエピソードで彩られている。1947年の対ドジャースワールドシリーズでは、第三戦にシリーズ史上初めての代打ホームランを放ち、第四戦ではマスクを被り、あわやシリーズ史上初のノーヒットノーランという所までいきながら、痛恨の敗戦を喫している。9回二死ながらも四球で歩いた2人のランナーを背負った先発投手ビル・ベヴンスは、クッキー・ラバゲットに走者一掃の二塁打を喫し、試合を失ったのだった。

 

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1951年シーズンの9月、ボストン・レッド・ソックス戦、アリー・レイノルズが再びノーヒット・ノーランに王手をかけた試合で、ベラは野球史上最も有名なエラーの一つをしでかした。9回二死でテッド・ウィリアムスが本塁とヤンキースのダグアウトの中間にファウルフライを打ち上げた。試合は終わったと思われた。それはレイノルズのシーズン2度目のノーヒットであり、アメリカンリーグの投手としては初の快挙となるはずだった。しかし、ボールは落ちてくるにつれ、突風に捕まった。ベラは必死に背走したが、ボールは彼のミットをこぼれ、彼は大の字に横たわった。

 

だが、あろうことか、次の投球でもウィリアムスは同じようなフライを打ち上げ、今度はベラもしっかり捕球したのだった。

 

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1955年の対ドジャースワールドシリーズ初戦、ヤンキースは6対4でリードしていたが、8回の表にドジャースジャッキー・ロビンソンが本盗した。球審のビル・サマーズはセーフと判定したが、ベラは激怒し、サマーズに身振りで食って掛かり、グラウンドで癇癪を爆発させんばかりの形相をみせた。この試合には勝ったものの、ヤンキースはシリーズでは敗れた。それは、ベラ在籍中のヤンキースに対するブルックリン・ドジャース唯一の勝利だった。しかし、ベラはこのときのことを決して忘れなかった。50年以上後、ベラはそのときの写真に「大統領閣下、彼はアウトです」とサインして、オバマ大統領に贈ったのだった。

 

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1956年のワールドシリーズは再びドジャースが相手だったが、ここでもベラは忘れられない写真の中心にいる。この歓喜の写真で、デール・ミッチェルを三振に打ち取り第5戦に決着をつけたドン・ラーソンの腕に、ベラは飛び込んでいる。ワールドシリーズの歴史上、唯一の完全試合(そして唯一のノーヒット・ノーラン)が達成された瞬間だった。

 

試合後ロッカーに報道陣が詰めかけたとき、ベラは彼らにいたずらっぽく、「それで、何が新しいのかな」と応じてみせた。

 

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歴史的な瞬間や個人的な記録もさることながら、ベラのキャリアが傑出しているのは、彼がいかに勝ちまくったかということだ。1946年から1985年までに、選手、コーチ、監督として、ベラはワールドシリーズになんと21回も出場した。最初はフィル・リズ—トやジョー・ディマジオと、その後はホイットニー・フォードやミッキー・マントルと一緒に強力なヤンキースでプレイし、ベラはワールドシリーズ優勝チームに、1947、49、50、51、52、53、56、58年と名を連ねたのだった。1961、62年には、控え捕手兼外野手として、チームの優勝に貢献している。(1955、57、60、63年には、ワールドシリーズに出場するも敗れている)

 

合計すると、彼の在籍時にヤンキースアメリカン・リーグのペナントを17年間で14回獲得している。彼はいまだに、ワールドシリーズの出場試合数、捕手としての出場試合数、安打数、二塁打数の記録保持者である。

 

比肩する者なき優勝回数

 

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ローレンス・ピーター・ベラは、1925年5月12日にザ・ヒルとして知られるセントルイスのイタリア人居住地で生まれた。少年時代の友人ジョー・ガレージオラもこの地で野球人生をスタートした。ベラは五人兄弟の四男だった。父のピエトロは建設労働者や煉瓦職人として働いており、母のパウリーナは、北イタリア・ミラノ近くの村、マルヴァリオ出身の移民だった。(大人になってから祖先の地を訪れたベラは、スカラ座で「トスカ」の公演を聴き、「いいじゃないか、音楽まで素晴らしい」と言ったという)

 

少年時代には、母親の発音通り、ラリーあるいはローディーと呼ばれていた。2009年に出版されたアレン・バーラによる伝記、「ヨギ・ベラ、永遠のヤンキー」にも彼のあだ名の由来が詳しく述べられている。十代初めのある日、ラリーは友達と映画を見に行き、インドへの観光映画を見ていると、ヒンズーのヨガ行者が足を組んで画面に現れた。友人の一人が、その行者の姿勢は、グラウンドで打席を待っているベラの格好にまさしくそっくりなことに気がついた。その日から、彼はヨギ・ベラとなった。

 

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運動には熱心だったが学業には無関心だったので、ベラは8年生で学校をドロップアウトした。そして、(10代のアマチュア少年野球リーグである)アメリカン・レギオン・ボールでプレイし、いくつかの仕事をした。10代で、ベラとガレージオラはセントルイス・カージナルズのトライアウトに参加し、カージナルズのゼネラル・マネージャー、ブランチ・リッキーから共に契約を提示された。しかし、ガレージオラには500ドルのボーナスが提示されたのに、ベラへのボーナスは250ドルだったので、彼は契約しなかった。(これは、来たるべき契約交渉の前ぶれだった。1961年には、ベラの年俸は当時の選手としてかなりの額である6万5千ドルに達していたが、契約交渉にかけては抜け目のなさをみせ、ヤンキースのしみったれのジェネラル・マネージャー、ジョージ・ウェイスからほとんど毎回譲歩を引き出していた)

 

一方で、後にボルチモアに移りオリオールズとなるセントルイス・ブラウンズもベラと契約したがっていたが、ボーナスは何も払う気がなかった。1942年のワールドシリーズでカージナルズがヤンキースを破った翌日、ヤンキースのコーチがベラの両親の家にやってきて、マイナーリーグ契約を示すと共に、こっそりと500ドルを手渡した。

 

ファンの人気者

 

ベラのプロ野球人生は、1943年にピエモンテリーグ・クラスBのノーフォーク・ターズで始まった。111試合で打率2割5分3厘、捕手としてリーグ最小のエラーだったが、二連戦で12安打23得点を挙げたこともあったという。将来が期待できるスタートだったが、第二次大戦で彼のキャリアは中断した。ベラは海軍に入隊した。ノルマンジー侵攻に参加し、2ヶ月後、マルセイユを襲う連合軍のドラゴン作戦において銃弾で負傷し、パープル・ハート勲章を授与された。

 

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除隊後、1946年にニューアーク・ベアーズに加わり、その後、ヤンキースの最上位のファームチームに移動した。彼は外野手と捕手としてプレイし、77試合で打率3割1分4厘、15本塁打、59打点をあげたが、彼の守備はまだ磨かれていなかった。本塁から二塁に送球しようとして、審判を殴ってしまったこともあった。しかし、9月にヤンキースはベラを呼び寄せた。メジャー最初の試合で、ベラはホームランを含む2安打を放った。

 

ヤンキースの一員として、ベラはファンの人気を集めた。その理由は、まず、二年目の1948年のフルシーズンには打率3割5厘、98打点を挙げたプレイの素晴らしさ、そして、彼の謙虚さと正直さだった。1947年、セントルイスのスポーツマン・パークで表彰を受けた際、ベラは地元の観衆に向かって緊張の面持ちでこう述べた。「今宵私を表彰しなければならなくなった皆様に感謝の意を表するものであります」

 

ベラはスポーツ紙の記者にとっても格好の取材対象だったが、彼らが描くベラの人物像といえば、野球馬鹿で、滑稽な英語をしゃべり、文字といえば漫画と映画はなんとかという猿のような男だった。こうして、田舎者の成功者というヨギの風刺画が生まれた。

 

1949年7月のライフ誌にはこう書かれている。「文法や正書法は言うに及ばず、文学や科学のような不必要で取るに足らないことで頭を悩ませている人々に対して、今でも彼は哀れみの念しかおぼえない」

 

「鉱夫の友」誌はこう言い切っている。「考古学者しか気に入りそうもない肉体を持つ185ポンドのベラをもってすれば、ネアンデルタール大学同窓会のメンバーに仲間入りすることは簡単だろう」

 

ベラは走りながらぶれる癖があった。それが見苦しければ、注意を受けたかもしれないが、捕手をするには関係なかった。「顔の善し悪しでヒットを打った奴なんて見たことないね」と彼は言ったと伝えられている。しかし、記者が彼のガールフレンド、カルメン・ショートについて、ベラは彼女と結婚するには不釣り合いだと言ったときには、「俺だって人間だろう?」と答えたと「鉱夫の友」誌は伝えている。

 

ベラはこの揶揄を乗り越えた。1949年にショートと結婚し、2014年に彼女が亡くなるまで添い遂げた。彼の後には、三人の息子が残された。ボルチモア・コルツのプロ・フットボール選手となったティム、ヤンキースピッツバーグ・パイレーツヒューストン・アストロズ内野手として活躍したデール、そしてローレンス・ジュニアだ。孫とひ孫も合計11人いる。

 

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確かに、ベラへの評価も年月と共に変わった。

 

1963年10月のニューヨーク・タイムスでロバート・リサイティーはこう書いている。「ベラは、彼が抜け目なく機を逃さない知的な人物であることを示す証拠がグラウンドの内外にいくらでもあるにもかかわらず、人々が彼を親しみやすい道化であると思うままにしておいた。というのも、おかげですぐに人々に受け入れられたからだ」

 

監督としての成功

 

ベラがヤンキースの選手として引退を決意すると、即、ヤンキースは彼を監督に指名した。監督としても彼は成功したが、現役の時のようにいつも勝てたわけではなかったし、ドラマや失望と無縁でいることも出来なかった。事実、スタートはまずかった。1964年には高齢化していたヤンキースは、夏の間疲れ切ったような試合が続き、8月半ばにはシカゴで首位のホワイトソックスに4連敗したが、ここでベラの生涯でももっとも変人らしいエピソードが起こる。

 

チームがオヘア空港に向かうバスの中で、控えの内野手フィル・リンツが「メリーさんの羊」をハーモニカで吹き始めた。連敗で機嫌の悪かったベラはリンツにやめるように言ったが、リンツはやめなかった。(別のバージョンでは、リンツミッキー・マントルにベラが何と言ったのか尋ねたところ、マントルが「もっと大きな音で吹け」と言ったことになっている。)突然ハーモニカが宙に舞った。ベラがリンツの手をひっぱたいたとも、リンツがベラに投げつけたとも言われている。(バスに同乗していた選手によって、諸説様々である)

 

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この出来事を取り上げた新聞記事は、ベラがチームの統率を失ったかのように書き立てた。しかし、9月にヤンキースホワイトソックスに追いつき追い越しペナントを勝ち取った。にもかかわらず、セントルイス・カージナルズにワールドシリーズ第7戦で敗れ、ジェネラル・マネージャーのラルフ・ホークはベラを解雇した。奇妙なことに、ホークはベラの後釜にカージナルズの監督ジョニー・キーンを据えた。

 

キーン率いるヤンキースは1965年のシーズンを6位で終えた。

 

一方、ベラは街の反対側に移り、ステンゲル監督のメッツのコーチについたが、メッツはお粗末なことで有名であり、ステンゲル監督は顔を紅潮させ退任することになる。メッツは1969年までもはや神話的な低迷期を続けていたが、ギル・ホッジス監督、そして、一塁コーチ・ベラの下、かの「ミラクル・メッツ」はワールドシリーズ制覇を成し遂げる。

 

1972年のシーズン開幕前にホッジスが亡くなると、ベラが監督を引き継いだ。この年の夏、ベラは野球殿堂入りしている。

 

だが、彼が引き継いだメッツは低迷し、その年3位に終わった。が、1973年のシーズンはもっと悪かった。8月半ばには勝率5割をはるかに切り6位だった。もっとも有名なヨギイズムを彼が口にしたのはおそらくこの時期と言われる。

 

「終わるまでは終わりじゃないんだ!」(というような意味のこと)と彼は説き、あれよあれよと見る間にメッツは勢いをつけ、カージナルズに苦しめられながらもナショナルリーグ東部地区で優勝した。

 

メッツはリーグ選手権でレッズを破ったものの、ワールドシリーズではオークランド・アスレティックスに敗れた。ベラには3年契約が与えられたが、1974年のメッツはひどい調子で5位に終わり、翌年の8月6日に3位で5連敗を喫したとき、ベラは解雇された。

 

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再びリーグを移りニューヨークの区を変え、ベラはブロンクスヤンキースのコーチとして復帰し、1984年に気まぐれな監督ビリー・マーティンの後釜として、オーナーのジョージ・スタインブレナーから後任に指名された。その年ヤンキースは3位に終わったが、1985年春のキャンプ期間中、スタインブレナーは結果はどうあれ今シーズン終わりまで監督を任せるとベラに約束した。

 

しかし、16試合を終え、ヤンキースは6勝10敗となり、短気で豪腕のスタインブレナーは何はともあれベラを解雇し、マーティンを呼び戻した。約束を破ったばかりか、スタインブレナーは解任の知らせを目下の者を通じて伝えたのだった。

 

ベラの息子デールがヤンキースに加入したばかりだったので一層辛いものだったが、この解雇は野球史上伝説的な反目を引き起こすことになる。ヒューストン・アストロズのコーチを務めていた4シーズンを含め、ベラは14年間に渡りヤンキースタジアムに足を踏み入れることを拒否する。

 

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その間、個人寄付者の支援がありヨギ・ベラ博物館&学習センターがモントクレア州立大学のニュージャージー・キャンパスに設立され、1996年にはベラに人文科学名誉博士号が贈られた。そして、マイナーリーグ用の球場、ヨギ・ベラ・スタジアムが1998年ここにオープンした。

 

この博物館は、展示でベラの球史を振り返るものであり、子供たちが野球史に親しむためのプログラムを運営している。1999年には、2010年に死去したスタインブレナーもここを訪れて改心した。

 

「君を解雇したことは間違いだったと理解している」と彼はベラに言った。「私の野球に関する最悪の間違いだった」と。

 

ベラは謝罪にけちをつけようとはしなかった。彼のヤンキーススタジアムへの帰還を歓迎するために、ヤンキースは1999年7月18日にヨギ・ベラ・デーを開催した。ラーソンも招待され、始球式では彼の投球をベラが捕球した。

 

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驚くべきことに、この日の試合では、ヤンキースのデヴィッド・コーンが完全試合を達成した。

 

ベラがどこかで言ったか言わなかったように、「またもやデジャブ」だった。それは、驚嘆すべき彼の野球人生のクライマックスにふさわしいエピソードとなった。

 

ヨギイズムとされる彼の発言は論理的には何も言っていないに等しいですが、彼の闘志に溢れた気持ちだけは妙に伝わってくるものばかりですね。監督やコーチは技術的に細かいことも言うでしょうが、結局はプレイするのは選手です。言葉という理屈で、理屈では語れないスピリッツを彼は伝えていたのでしょう。それは、まさしく天才的と言えるでしょう。