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キャッシュレス化に近づくスウェーデン

教区民は教会に献金を携帯電話から送る。街頭のホームレスの売り子はモバイル・クレジットカード・リーダーを携えている。大ヒット曲「マネー、マネー、マネー」を送り出した1970年代のポップ・グループを称える殿堂であるアバ博物館さえもが、現金は時代遅れだと考えていて、紙幣や硬貨などの現金は受け付けない。

 

スウェーデンほどキャッシュレス化が進んでいる国はほとんどないだろう。スマホアプリやクレジットカードで支払いをすることの便利さに、スウェーデンは夢中になっている。

 

この技術先進国は、音楽ストリーミングサービスのSpotifyやモバイルゲームのCandy Crushを生み出してきたが、デジタルでの支払いを簡単にするイノベーションにも惹きつけられている。これは既に現実的な話であり、この国の銀行の多くではもはや現金を受け付けたり支払ったりしなくなっている。

 

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「現金が廃れていこうとしているのに、現金を受け取って時代遅れにはなりたくないからね」と、アバ博物館ビョルン・ウルヴァースは語った。彼はアバの元メンバーで、バンドの遺産をこの博物館を始めとして止めどなく広がる事業に拡大した。


誰もがこの動きを歓迎しているわけではない。スウェーデンの電子支払受け入れに危機感を覚えた消費者団体や評論家は、プライバシーに対する脅威拡大と手の込んだインターネット上の犯罪への脆弱性増大について警告している。スウェーデン法務省によると、昨年、電子的な詐欺の件数は、十年前の倍以上の14万件に達している。

 

評論家は、スウェーデンでは、現金を使う老人や難民は相手にされなくなるかもしれないと言う。また、なんでもアプリで支払をし、携帯電話でローンを払う若い人たちは負債を抱えこむことになるリスクがある。

 

スウェーデン警察長官、前インターポール長官のビョルン・エリクソンは、「電子支払は時代の流れかもしれないが、社会がキャッシュレスになると、様々なリスクが生じることになる」と言う。

 

しかし、ウルヴァースのような賛成派は、国全体がキャッシュレス化すべき理由として、安全性を挙げる。彼は、数年前にストックホルムの息子のアパートメントが2度泥棒に入られてから、カードと電子支払だけを使うようになった。

 

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現金を全く持ち歩かないウルヴァースはこう言う。「不安感があったんだ。そこで考えた。キャッシュレス化された世の中で、泥棒も盗品を売ることができなかったら、一体どうなるだろう?とね」

 

紙幣と硬貨は、米国経済では7.7%、欧州経済では10%を占めているが、スウェーデン経済では2%にすぎない。Euromonitor Internationalによれば、今年、世界の他の地域において消費者の買い物支払は平均75%が現金で行われたのに対し、スウェーデンではたった20%だという。

 

スウェーデンではいまだカードが主流である。15年前には2億1300万件だったクレジットとデビットの決済件数は、2013年にはおよそ24億件近くになっている。しかし、スウェーデン人が毎日の買い物にアプリを使う回数が増えるにつれ、クレジットカードでさえも競争に直面している。

 

SEB、スウェドバンク、ノルデア銀行などスウェーデン大手銀行の支店の半分以上では、手元に銀行を置いていないし、預金も受け付けていない。銀行強盗をしても仕方ないので、セキュリティの心配もあまりしなくて済むようになったと言う。

 

国際決済銀行によると、昨年度、スウェーデンの銀行金庫には36億クローネの紙幣と硬貨があったが、これは2010年度の87億クローネから減少している。スウェーデンの銀行コンソーシアムにより運営されている現金引出機は、特に田舎を中心に、多くが撤去されつつある。

 

エリクソンは、現在、現金輸送の警備を行う企業のロビー団体であるスウェーデン民間警護業組合を率いているが、手数料収入を生み出すカードと電子支払を普及させるために、「現金を市場から閉め出そうとしている」銀行とクレジットカード会社を非難している。

 

「それは、彼らが自分で決めることではないと思いますね」と彼は言う。「彼らは、市場における力を使って、本当にスウェーデンをキャッシュレス社会にするべきでしょうか?」

 

政府はキャッシュレス化の波を避けようとはしていない。電子取引には証拠が残るので、徴税を効率化できるのならなんであれ政府には役に立つ。いまだに現金が多く利用されているギリシャやイタリアでは、脱税が依然として大きな問題のままだ。


スウェーデン銀行家協会の代表、レイフ・トローガンは、キャッシュレス化によってかなりの手数料収入を銀行は得ることができると認める。しかし、現金で取引を行うのは銀行や企業にとってもコストがかかるので、現金の利用を減らすのは経済的にも理に適っているとトローガンは言う。

 

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確かに現金は死んだわけではない。スウェーデン中央銀行であるリクスバンクは、貨幣は急速に減っていくだろうが、まだ20年は流通し続けるだろうと予測している。最近、リクスバンクは新規にデザインした硬貨と紙幣を発行した。

 

しかし、現金はもはや日常使うものではないという消費者の数は増え続けている。

 

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ヨーテボリ大学で聞いたところ、学生たちはほとんどカードと電子支払しか使わないと言う。ハンナ(23)は、「誰も現金なんか使いませんよ」と言う。「私たちの世代は現金なしでも生きていけますよ」

 

良くないのは、考えなしに簡単に出費しやすいことだと、彼女は認めた。「確かに余分な出費をしてますね」と彼女は言う。「でも、500クローネの請求書を手にしたら、支出について考え直すでしょうね」(500クローネは約58ドル)

 

変化は、スウェーデン経済において、およそ思いもしなかった一角にも押し寄せている。

 

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ステファン・ウィクバーグ(65)は、IT技術者の職を失って以来4年間ホームレスだった。現在、彼は住むところができて、チャリティー組織Situation Stockholmの雑誌を売っているが、ほとんど誰も現金を持ち歩いていないことに気がついてから、支払を受け取るためにモバイルカードリーダーを使い始めた。

 

「今は、人に逃げられなくなったよ」と言うウィクバーグは、VISA、マスターカード、アメックス対応と書いた看板を持ち歩いている。「『小銭をもっていない』と言われたら、カードでも受け取れるし、SMSでも大丈夫ですよと言っているよ」と彼は言う。2年前にカードリーダー対応してから、彼の売上げは30%増えた。

 

フィラデルフィアストックホルム教会では、1000人ほどの信徒のうち教会への献金を現金でもってくる人は今やほとんどいないと、ソレン・エスキルソン牧師は言う。

 

近頃の日曜礼拝では、協会の銀行口座番号が大スクリーンに映し出される。礼拝者は携帯電話を取りだし、Swishというアプリで献金する。このアプリは、スウェーデンの大手銀行による支払システムで、急速にカードのライバルとなりつつある。

 

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アプリを使わない礼拝者は、“Kollektomat”という特別なカード読取機の列に並ぶ。これを使えば、様々な協会の活動に献金を行うことができる。昨年度は、集まった2000万クローネの献金のうち、85%以上はカードやデジタル支払によるものだった。

 

「電子式で簡単なので、今では教会にこれまでよりも献金してもらえるようになりました」と言うエスキルソン牧師は、現金の扱いが減ったため、セキュリティのコストも教会は削減できたとも言う。

 

利便性にもかかわらず、キャッシュレス社会の恩恵を受ける立場にある人々の中にも、難点を認める人々がいる。

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スウェーデンは常にテクノロジーの最前線であり続けてきたから、これを信奉するのは簡単なことだ」と、モバイルカードリーダーを製造しているiZettle社の設立者ヤコブ・デ・ギールは言う。

 

「しかし、電子商取引だけで買い物をするなら、ビッグ・ブラザーは我々の行動を正確に監視することができることになる」と彼は語る。

 

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しかし、音楽界の巨匠ウルヴァースにとっては、そんな心配は老婆心にすぎない。

 

自分の車に向かいぶらぶらとアバ博物館を後にしながら、「キャッシュレス社会を賛美する意見は、どれもユートピア的な考えだけれど、我々はそこにとても近いところにいるんだ」と語る。

 

スナックにと、ホットドッグ・スタンドに彼は立ち寄った。しかし、支払をしようとしたとき、カードリーダーが故障した。

 

店員は言った。「済みません。現金で御願いします」

 

スウェーデンがこんなにキャッシュレス化した国だとは知りませんでした。人口1000万人くらいの国ですが、このくらいの規模の国のほうが、むしろこういう大きな変化を受け入れやすいのかもしれません。欧州でも、北欧は技術力もありますし、過去の歴史や因習にも囚われることも比較的少ないのか、先進的な国が多いようです。

 

本当にキャッシュレス化して大丈夫なのかという不安も確かにありますが、社会全体のモーメンタムがこのようにキャッシュでは相手にされず不便だという方向に一度傾いてしまうと、多少のトラブルがあっても、流れは止まらないでしょう。

 

個人的には、iPhoneを使い始めてから、電子マネーをすっかり使わなくなりました(笑)。日本の電子マネーも、iPhoneの普及で大分影響を受けているのではないでしょうか。

 

日本でもぼちぼち「フィンテック」という言葉を目にするようになってきましたが、来年辺りはこうした金融とテクノロジーというトピックが大きく取り上げられることになりそうな気がします。

色盲の人だけが分かるコカコーラの広告

石原画像は色盲以外の人にとっては解読困難

 

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あなたは、この画像のドットをつなぎ合わせることができるだろうか?


広告会社エッセンシウスは、先頃デンマークで、ステビアとサトウキビから作った甘味料を用いたコカコーラ・ライフを売り込むためのティザー広告キャンペーンを開始した。しかし、たった約5%の人しか、実際に広告のメッセージを見ることができない。


というのも、この広告のコピーは、大半の人にとっては緑と茶色の水玉模様のように見える画像に「隠されている」からだ(これは専門的には、逆石原表と呼ばれる)。しかし、色盲の人々はこのデザインの中にある「Life」という文字を見ることができる。

 

「我々のアイディアは、ごく一部の人をターゲットにすることで、多くの人の注意を引きつけることができるという前提に基づいています」とエッセンシウスの経営パートナー、ブライアン・オルランドは説明する。「人々を驚かせ、キャンペーンの隠されたメッセージについて興味を持たせることで、エンゲージメント率を非常に高めることができました」


デジタル広告、ソーシャルメディア、屋外のインスタレーションやデパートでのサンプル試飲に、この画像は使われた。この広告会社によると、この珍しいアプローチをとることで、メディアの関心を引き起こし、10歳から60歳までのデンマーク人の17%以上にこの広告を見せることができた。

 

でたらめなようにも見えるが(一体、何故色盲の人をキャンペーンのターゲットにするのか?)、この方法は、広告における社会的な包括性を目指そうとする一般的なトレンドに、確かに沿ったものである。また、このブランドが数ヶ月前に「例のドレス」の色について示した偏執ぶりを思い返させるものだ(注:Coca-Colaのツイッターアカウントは、「あのドレスが赤と白だったら良かったのに」とツイートしている)。

 

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ここで言えるのは、マーケッターは慎重に事を進めるべきだということだ。こうしたキャンペーンは搾取的で攻撃的なものであると解釈する人たちもいるだろうし、商業的利益のために特定の人々のユニークさや視覚能力をだしに使おうとしたと取られるかもしれない。


デンマークでコカコーラは運が良かったのか、論争が起こることはなかった。

 

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 微妙な問題がある話ですが、最近はこういう問題に対して息苦しいくらいの自主規制や社会的風潮があります。まあ、こうしたことにあまり目くじら立てない方が住みやすい世の中になるのではと思います。

 色盲検査の表は、日本の石原博士の作った表が世界中で広く使われているそうですが、始めて知りました。

自由の女神像はイスラム教徒の女性だった

「新しい巨像」はエジプトが起源

建国以来アメリカでは移民に関する議論が続いてきた。自由の女神像は移民を強く連想させるシンボルとして、安全と機会を求める人々に門戸を開き迎え入れるべきだという議論の引き合いに出されることが多い。ここで紹介するのは自由の女神についてあまり知られていない事実だが、現在のイスラム世界からの移民についての議論に一石を投じるものだ。最近の記事にもあったように、この像自体は元々、産業化時代におけるロードス島の巨像たるべくエジプトの農婦を表したものなのである。

 

この像のアラブのルーツよりもフランスのルーツに親しんでいる人にとっては驚きかもしれない。この像の構造はあのアレクサンドル・ギュスタブ・エッフェルにより設計され、フランス革命期に築かれた二国間の友好を祝福する100周年の贈り物として、フランスからアメリカに自由の女神は贈られた。

 

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女神像の設計者フレデリク・オーガスト・バルトルディもフランス人だったが、着想を求めたのは全く別の地、エジプトだった。1855年に彼はアブ・シンベルのヌビア遺跡を訪れたが、そこでは墓は巨像によって守られていた。バルトルディは古代建築に魅せられ、米国国立公園局が言うところの「大規模な公共建築と巨像構造に対する情熱」を育んだ。そして、彼はスエズ運河開通式の提案にその情熱を注ぎ込むことになる。

 

バルトルディが思い描いたのは、スエズ運河の北端であるエジプトの都市ポートサイドにそびえ立ち、エジプトを象徴するロープを纏った巨大女性像のモニュメントだった。自由の女神について何冊かの著書を持つバリー・モレノによれば、バルトルディはこの像のための準備として巨人像のような芸術を研究し、運河を望んで立つリベルタスと名付けた像のコンセプトを磨いたという。モレノは、「ベールをした農婦の姿をとり、この像は高さ26mにも達し、その台座の高さは15mに及ぼうというものだった」と書いている。自由の女神の前身となるこの像は「アジアを照らすエジプトの女神」と呼ばれていた。

 

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自由の女神の正式名称は「世界を照らす自由(Liberty Enlightening the World)」なので、確かにこの案が出発点になっているのでしょう。テロを恐れてシリアからの難民に二の足を踏むアメリカの象徴の原型がイスラム世界にあったというのは皮肉ですが、この像については色々な説もあるようですし、フランスのフリーメイソンから新大陸のフリーメイソンに贈られたものだそうですから、まあ、何とも言えないような話は色々ありそうです。

 

まあ、そういうことを言えば、牛久大仏のルーツはインドだとかいっているようなものかもしれませんが。でも、自由の女神は高さ40mで、牛久大仏は高さ100mなんですね。自由の女神が小さいというよりも、牛久大仏が無駄に大きいとしか思いませんがw。

 

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人類史上長者番付ベスト10

時代を超えた富の比較

ジョン・D・ロックフェラーやチンギス・カンよりも金持ちな人とは誰だろうか?簡単な質問だが、答えるのは難しい。

 

この史上長者番付は長い時間をかけて経済学者や歴史学者にインタビューした結果をもとにしている。時代や経済システムの大きな違いを乗り越えて富を比較するという困難にもかかわらず、この順位をいかに決定したかということについては、詳細を別途述べたい。

 

さしあたっては、以下のリストは厳密だが議論の余地もあるものであり、歴史上もっとも財をなした人物を経済的影響力の順番に並べる試みであると言っておけば充分だろう。

 

10位 チンギス・カン

【生没年】1162年〜1227年
【国】モンゴル帝国
【財産】莫大な土地、それ以外はさほどでもない

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チンギス・カンが人類史上もっとも成功した軍事的リーダーの一人であったことは疑いない。最盛時には中国から欧州にまで広がったモンゴル帝国のリーダーとして、彼は歴史上最大の一つながりの帝国を支配した。しかし、その強大な権力にもかかわらず、彼は富を蓄えようとは決してしなかったと学者はいう。むしろ、逆にその気前の良さが彼の影響力の鍵だった。

 

CUNYクイーンカレッジの歴史学教授、モーリス・ロザービは「彼の成功の基盤は、戦利品を兵士や他の指揮官と分け合ったことにある」という。

 

チンギス・カンと近代世界の成立」の著者であるジャック・ウェザーフォードの説明に拠れば、多くの前近代の軍隊とは違い、モンゴルの兵士は個人的に戦利品をせしめることを禁止されていた。一つの地域を征服すると、すべての戦利品は書記官によって目録化され、後で軍人とその家族に分配された。

 

チンギスも戦利品の分け前を受け取ったが、それは彼を大富豪にするほどのものではなかった。「彼は自分や一族のために宮殿を作らなかったし、寺院や墓はおろか、家すら建てなかった」とウェザーフォードは言う。「彼は、羊毛のパオで生まれ、羊毛のパオで死んだ。彼は死んだとき、他の人と同じようにフェルトにくるまれて埋められたのだ」

 

9位 ビル・ゲイツ

【生年】1955年
【国】アメリカ合衆国
【財産】789億ドル(1ドル120円換算で9兆4700億円)

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存命中の人物であるため、ビル・ゲイツの財産は推算が容易だ。今年、フォーブス誌はマイクロソフト設立者の総財産は789億ドルであると推定した。これは、世界第2位の富豪であるZaraの共同設立者アマンシオ・オルテガを、およそ80億ドル上回る。

 

8位 アラン・ルーファス(アラン・ザ・レッド)

【生没年】1040年〜1093年
【国】イングランド
【財産】1940億ドル(1ドル120円換算で23兆3000億円)

 

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征服王ウィリアム1世の甥、ルーファスは叔父のノルマン征服に加わった。フィリップ・ベレスフォードとビル・ルビンスタインはその著書「富豪の中の富豪」の中で、彼の遺産は1万1000ポンドで、これは当時のイングランドGDPの7%に相当すると述べている。これは2014年のドル価値換算で1940億ドルに上るものとみられる。

 

7位 ジョン・D・ロックフェラー

【生没年】1839年〜1937年
【国】アメリカ合衆国
【財産】3410億ドル(1ドル120円換算で40兆9000億円)

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ロックフェラーは石油産業への投資を1863年に始め、1880年には、彼のスタンダード・オイル社はアメリカの石油生産の90%を支配していた。

 

ニューヨーク・タイムス誌の追悼文が述べたところでは、1918年の連邦所得税や全財産についての推算によれば、ロックフェラーの全財産は15億ドルであり、MeasuringWorthのデータによれば、この年の米国の経済生産のほぼ2%に相当する(米国では国民総所得について公式記録を1932年まで取っていなかった)。

2014年に同じシェアを持っているとすれば、それは3410億ドルとなるだろう。

 

6位 アンドリュー・カーネギー

【生没年】1835年〜1919年
【国】アメリカ合衆国
【財産】3720億ドル(1ドル120円換算で44兆6000億円)

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マスコミの注目を集めたのはロックフェラーだったが、アンドリュー・カーネギーこそが史上もっとも金持ちのアメリカ人だろう。スコットランドからの移民である彼は、1901年に自分の会社USスティールをJ.P.モルガンに4億8000万ドルで売却した。この額は米国のGDPの2.1%より少し多く、カーネギーの経済力は2014年における3720億ドルにあたる。

 

5位 ヨシフ・スターリン

【生没年】1878年〜1953年
【国】ソビエト連邦共和国
【財産】世界のGDPに9.6%を占める一国の完全な支配

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スターリンは、現代の経済史においてはあまり取り上げられない人物である。絶対権力を持った独裁者であり、世界最大の経済圏の一つを支配した男だった。スターリンの持つ富と旧ソ連の持つ富は事実上不可分のものではあったが、経済的支配力とソ連の完全な支配という類を見ない彼の組み合わせを理由に、多数の経済学者が人類史上の金持ちの一人として彼の名をあげた。

 

経済学者の理屈は良く分かる。OECDのデータによれば、スターリンの死から遡ること3年の1950年には、世界の経済生産のおよそ9.5%をソ連は占めていた。2014年に換算すれば、この額は7.5兆ドル近くに相当する。

 

その金は直接スターリンのものになったわけではないが、彼にはソビエトの経済力を好きなようにする力があった。

 

「彼には巨大な権力があった。その権力でなんでも好きなことができた」とアラバマ大学バーミングハム校の歴史学教授、ジョージ・O・リバーは述べている。「小切手も預金残高も気にせず、彼は地球上の陸地の1/6を操れたのだ」

 

だからといって、従来の意味でスターリンを金持ちだということができるだろうか。リバー教授も確信は持っていない。「彼は大金持ちの仲間だっただろうか」と教授も自問していた。「富の定義を拡張すればそうかもしれないが、だとしてもそれは彼の富ではなかった。彼は国家の富を支配していたということなのだ」

 

そうだとしても、歴史上もっとも経済に対する力を持った人々のリストからスターリンの名前を外すことは難しいだろう。彼の富を確定することはできなくとも、この第一書記長個人の経済的影響力は間違いなく近世史において比肩する者がいないほどのものであった。

 

4位 アクバル1世

【生没年】1542年〜1605年
【国】インド
【財産】世界のGDPの25%を占める帝国の支配

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インドのムガル王朝のもっとも偉大な皇帝であるアクバル1世は、当時の世界経済生産の約1/4を占めていた帝国を統治した。フォーチュン誌のクリス・マシューズは経済史学者の故アンガス・マジソンを引用し、アクバル治世下におけるインドの資本当りのGDPはエリザベス統治時代のイングランドに匹敵するが、「支配階級の豪奢な暮らしぶりはヨーロッパ社会のそれをはるかに上回るものであった」という。

 

当時のインドのエリート階級は西洋のエリート階級よりも豊かであったという主張は、経済学者ブランコ・ミラノビッチによって裏付けられており、彼の研究によればムガル王朝は民衆から富を引き出すことにもっとも長けた帝国の一つであったという。

 

3位 神宗皇帝

【生没年】1048年〜1085年
【国】宋
【財産】世界のGDPの25〜30%を占める帝国の支配

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中国の宋王朝(960〜1279年)は、史上もっとも経済的に強力な帝国の一つであった。台湾・淡江大学で宋王朝の経済史を研究しているロナルド・A・エドワーズ教授によれば、最盛期に宋は世界の経済生産の25%ないし30%を占めていたという。

 

帝国の富は技術革新と卓越した徴税力の両方に支えられており、エドワードによれば、同時期の欧州各国政府の数百年先を行っていたということだ。同教授は、宋王朝がきわめて中央集権化されており、これは皇帝が経済に関して強大な支配を有していたことを示していると指摘している。

 

2位 アウグストゥスカエサル

【生没年】紀元前63年〜紀元後14年
【国】ローマ
【財産】4.6兆ドル(1ドル120円換算で552兆円)

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当時世界の25%から30%の経済生産高を占めていた帝国を支配したのはアウグストゥスカエサルだけではなかったが、スタンフォード歴史学教授イアン・モーリスによれば、一時アウグストゥスの私財は帝国経済の1/5を占めていたという。この富は、2014年に換算すれば約4.6兆ドルということになる。モーリスは、「しばらくの間、アウグストゥスはエジプトを個人的に所有していた」と付け加える。これを上回るのは容易ではない。

 

1位 マンサ・ムーサ

【生没年】1280年〜1337年
【国】マリ
【財産】誰も表現できないほどの富

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ティンブクツの王、マンサ・ムーサは、歴史上もっとも富裕な人物とされている。フェラーム大学歴史学教授リチャード・スミスによると、金への需要が特別に高かった当時にあって、ムーサの西アフリカ王国は世界最大の金産出額を誇っていたらしい。

 

実際、ムーサはどれだけ金持ちだったのだろうか。彼の富を正確に算出する術はない。記録はほとんどないが、現在に残る情報は、王国の富は当時にあっても記録不可能であったことを伝えている。

 

蕩尽があまりに激しくエジプトでは通貨危機が発生したといわれる有名なムーサのメッカへの巡礼についての逸話のなかでは、数十頭のラクダが数百ポンドの金塊を運んだとされている。(スミス教授によると、マリ王国の金産出量はおそらく年1トンに達したらしい。)ムーサの軍隊は、弓手4万人を含む20万人の兵士から成っていたと言われるが、この軍勢を戦場に集めるには、現代の超大国でも苦労することがあるだろう。

 

しかし、王の正確な富を捉えようとすると、問題を見逃すことになる。ミシガン大学歴史学准教授ルドルフ・ウェアが説明するとおり、ムーサの富はあまりに莫大でそれを記述するのに苦労するほどだったのだ。

 

「彼の話は、今まで目にされたもっとも豊かな人物の話だ。そこがポイントだ」とウェア准教授は言う。「それを説明する言葉を人々は探そうとした。黄金の笏を持ち、黄金の玉座を占め、金杯を携え、黄金の冠を戴冠する彼の姿を描いた絵が多数ある。人類が持てる限りの黄金を想像し、それをさらに倍にしたらどうなるか考えると良い。それこそが、こうした記述が伝えようとしていたものなのだ」

 

誰も想像すらできないほどの富だというなら、それはとんでもない金持ちだということだ。

 

5位のスターリンから上は単位が国なので、もう別の世界という感じですね。それでも、ビル・ゲイツチンギス・カンよりも金持ちだという結論になるとは。最初に認めているように、無茶ぶりも良いところではあるのですが、それでも数字にすると色々と議論の種が出てくるのが面白いところです。お金とランキングは、ゲスいアメリカ人の大好物ですが、便利な指標であるのは間違いありません。

 

最近の研究では、中世においてはアジアはヨーロッパよりも豊かであったということが明らかになってきているようですが、これまでの西洋偏重の歴史観に対する再考がここにも反映されているのが興味深いと思います。

7850マイル彼方の女狙撃手

彼女の名は「スパークル」。ドローンを操る。めそめそした男が大嫌いだ。命を奪うのに躊躇することはない。

午後10時頃、北ラスベガスの家でベッドから這い出し、アンはシフト勤務の支度を始める。

 

赤茶色の髪の毛をアップにまとめ、オリーブグリーンの飛行服を履く。キッチンでシフト中の間食にする果物を袋に入れ、退屈な夜になった場合に備えて、バックパックほどもある弁当入れの袋に宿題も一緒に詰め込む。本を開く暇など大抵ありはしないのだが。

 

最後に、彼女のペット、小麦色をしたシャー・ペイとピットブルの雑種犬の頭をなでてやると、家を出て、多くの人々と同様に深夜勤務に出かける。ほとんどの人は街のホテルやカジノに向かうが、彼女が仕事に向かう先はクリーチ空軍基地、そして戦争だ。

 

空軍軍曹のアンは現在も遠隔自動操縦航空機(RPA、Remotely Piloted Aircraft)計器操作官、通称「センサー」である。クリーチ基地で、イラクアフガニスタンの上空を飛行する任務を与えられた偵察飛行中隊に所属している。しばしばドローンと呼ばれるこのRPA飛行機隊よりも無慈悲な兵器は、アメリカ軍の武器倉庫中を見渡してもまずない。十年以上前、アフガニスタンイラクで米国はRPAを飛行させ、テロリストや反逆者を発見する目として地上部隊を支援するために用い、多くの場合には火器で攻撃までおこなった。

 

出勤の車中でも、アンの心は、外の砂漠の風景にはない。同僚のドローン操作官の間では、彼女は「スパークル」で通っている。それは2009年のことだった。オバマ大統領はアフガニスタンへ派兵を行った。「スパークル」の心は7000マイル彼方の砂漠にあった。今日もこれからの24時間、犬を公園に連れて行き運動させて朝食のビールで一夜を終えるまでに、反乱者を追跡し、ヘルファイヤーミサイルがそいつを殺すのを観察し、そいつの葬儀を偵察するのだ。

 

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深夜勤務

 

RPAは、アフガニスタンからソマリア、シリアに至るまで、アメリカが現在行っている戦争のシンボルとなった。そして、アメリカの「ドローン」がアルカイダ工作員に初めてミサイルを撃って以来14年が経ったが、遠隔射撃の倫理と合法性は依然として激しい議論の対象となっている。今年初め、米政府は、アルカイダの捕虜となっていた自国市民の一人をドローンで誤って殺害したことを明らかにし、遠隔操縦機を攻撃に使用することが正当化されるのはどんな場合かという議論は新たな段階に入った。

 

木曜日、アフガニスタンソマリア、イエメンでのRPAの作戦行動に関してこれまで隠されていた新しい書類について、インターセプト誌が報じた。その書類はRPAが行ってきた悪事を明らかにしており、攻撃対象をどう特定するかという点について「致命的な欠陥」を見つけたという米軍内部の調査もそこには含まれていた。携帯電話を頼りにした結果、政府は間違ったターゲットを殺害することになった。その新書類はRPAの精度にも疑問を投げかけていた。2012年1月から2013年2月までの期間にアフガニスタンでは200人以上が殺害されたが、本当に攻撃対象だったのは35人だけだったと同誌は報じている。

 

「この常軌を逸した監視の対象はどんどん広がっている。人々の監視、拷問、名簿への追加、管理番号の割り当て、そして、予告無しの死刑。それが世界中の戦場で起こっている。一番最初から、これは間違っていたのだ」と書類の提供者は語っている。「我々はこれを野放しにしている。我々というのは、今この情報を知らされても何もしないアメリカ市民全員のことだ」

 

しかし、RPAに対する関心は高いにもかかわらず、21世紀最大の物議を醸している兵器システムを操作する人々の姿を、大衆が目にすることはほとんどない。例外的な報道は、攻撃、それも特に市民がミサイルで殺害された攻撃の場合くらいだ。昨年本誌は、RPA訓練基地のあるニューメキシコ州ホロマン空軍基地で、2ダース以上の空軍将校とRPAに携わる空軍関係者にインタビューを行い、基地での暮らしぶりや反テロリズム軍事活動に空から参加するのはどんな感じかといった話を聞いた。インタビューした人々の多くはホロマン基地を離れて作戦部隊に加わることになるので、パイロットや計器操作官はファーストネームコールサインで呼ばせてもらうことで同意を得た。

 

2009年のその日、スパークルが出勤してまずしたのは、オペレーションデスクでスケジュールをチェックして、深夜シフト勤務で誰と一緒に飛行するのか確認することだった。工場勤務のように、パイロットの仕事もシフト制であり、時には一度で8時間飛行することもある。パイロットも計器操作官も常にローテーションを組んでいるので、計器操作官はシフト毎に別のパイロットと飛行することもよくある。

 

その日、彼女は、元B-1爆撃機パイロットであり、背が高く手足もひょろ長いパトリックと飛行していた。パトリックは、元F-4戦闘機システムの士官である義父に低空飛行の話をされ、空軍に入ることを勧められたのだった。パトリックはB-1爆撃機部隊に配属されアフガニスタンで爆撃を行ったが、家族と離れて6ヶ月も暮らすのは長すぎたので、2009年に代わりにMQ-9リーパー部隊に志願した。RPA部隊は二つの世界の両方で生きるために最善の選択だと、彼は考えた。家で暮らしながら、戦闘任務飛行をすることができるのだ。

 

パトリックは部隊では「スペード」で通っているが、このコールサインは彼が家庭を大切にする男であるところから来ている。

 

現在はホルマン空軍基地で新米RPAパイロットの育成にあたっているスペードはこう言っていた。「俺は3人の子持ちの万年中尉でね。パイプカット手術をしたんだが、それが部隊に知れ渡った。それで連中は、去勢された(spayed)牝犬に引っかけて、俺のことをスペード(Spade)と呼ぶようになったんだよ。みんな、トランプか何かが理由だろうと考えるがね」

 

スパークルはスペードと飛行するのが好きだ。彼は悠々としており、仕事を任せてくれる。大学の学費の足しにするために、空軍に入る前はルイジアナのカジノで働いていた。空軍に入ると、衛星写真から軍事行動の証拠を探すためにノイズを取り除く画像分析の仕事を始めた。それから、遠隔操縦飛行機の訓練プログラムに移動した。彼女のコールサインの謂われは、彼女のヘッドセットのヘッドバンドとイヤフォンがデコられており、動きできらめくからだった。

 

「これをデコったのは、あの世で敵にダメ押しするためよ」とスパークルは言う。「急進的なジハード主義者達の大半は、女に殺されたら天国には入れないと信じている。連中の女性に対する扱いを考えたら、傷に塩を塗り込むのもなんでもないわ」

 

スパークルも、スペードも、建物のまわりが騒がしいのに気づいていた。

 

スペードの同僚が言った。「おい、出撃するぞ、俺たちのシフトで攻撃が始まるかもしれない」

 

今夜、ミサイルをターゲットに誘導するのはスパークルの仕事だろう。

 

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16秒時点

 

シフト勤務は必ずメインの事前会議室で始まるが、その大劇場さながらの会議室にはパワーポイント書類を投影するプロジェクターがあり、天候、アフガニスタンの目標地域、様々な任務で飛行しているリーパーやプレデターの状況などについて情報のアップデートが示される。全体事前会議終了後、スペードとスパークルは、今日の任務である攻撃の事前確認のため、そこに残った。別のリーパーの乗務員達もそこに加わった。

 

ターゲットはタリバン中級幹部だった。飛行部隊はこの数週間彼を監視していたが、遂に攻撃命令が下った。情報分析官はスクリーンにスライドを映して攻撃の手はずを示した。住宅地の拡大写真のスライドがスクリーンに映った。東側は共同墓地だった。西側が攻撃目標の人物が住む住宅地だった。家の外には、毎日のミーティングに乗って行くバイクがあった。

 

攻撃作戦は秒刻みで指示されていた。数週間の観察で、彼がバイクに乗ってから住宅地の外れに来るまで12秒かかることがわかっていた。計画では、住宅地と墓地の間の人気のない道路で彼を攻撃することになっていた。

 

スペードたちパイロットは、常にターゲットを目指す1台のリーパーを中心とする円上を飛行する。その誘導リーパーが離脱するのは、追跡リーパーが射撃地点に到着したときだ。33秒後の発射準備ができたのだ。情報部は、16秒後の時点でヘルファイヤーミサイルを彼に向けて発射するよう求めた。

 

この計画は攻撃計画としてはよくある程度の難易度だとスペードは言う。

 

「情報をすべて集めることにより、攻撃対象が合法であり付随的損害を最小にできることが確認できる」と、市民の巻き添えを指す軍隊用語を使って彼は説明した。「付随的損害が生じないように、A地点とB地点の間で彼を攻撃したかった。善人は怪我で済むが悪人は死ぬなんていう方法はないんだ」

 

しかし、RPAによる攻撃はこうした計画的な攻撃ばかりではない。アメリカは「署名的行動への攻撃」も行う。追跡対象がテロリストのような行動しか取らなければ、スペードのようなパイロットは引き金を引くことができる。こうした場合には、間違った人物を攻撃しているのではなく、攻撃で市民の命を犠牲にすることはないと確信することは難しい。アルカイダに囚われたアメリカ人捕虜、ウォーレン・ウェインスタインはこうした「署名的行動への攻撃」におけるアクシデントで殺害された。

 

事前会議が終わると、スペードとスパークルは、部隊の建物外に設置されたRPAのコックピットであるグラウンド・コントロール・ステーション(GCS)に歩いて行った。GCSは金属製輸送用コンテナくらいの大きさで、端にドアが付いていた。内部は、床に厚いカーペットがひかれ、一群のモニターと2脚の椅子が奥にあった。何台かの空調が音を立てて動き、GCS内部の電子機器を冷却していた。パイロットとセンサーがモニターを見やすいよう、明かりは薄暗かった。

 

GCSの中では、別の乗務員が交代の準備を済ませていた。リーパーはすでに飛行中であり、攻撃エリアを飛行していた。米軍の中でもRPA部隊は独特だ。米国から操縦しているドローンパイロット自身は離陸も着陸もしない。海外に配属されているクルーが離陸と着陸をすべて行う。これはRPA部隊の特殊技能である。米国のクルーはすでに飛行しているリーパーを引き継ぐ。

 

モニターには、事前説明のスライドにあった目標の住宅地がスクリーン一杯に映っていた。

 

「明かりがつくのを見張れ」と、そのパイロットはスパークルとスペードに言った。「まだ彼の姿は見ていない」

 

スパークルが先に計器操作を交代した。操作席に着くと、椅子をひいてコンソールに近づいた。モニターに近づくのが彼女の好みだ。キラキラ光るヘッドセットを椅子の端子につないで、モニターの画像を確認し始めた。

 

続いて、スペードも操縦席に着き、燃料ゲージなどの計器をチェックした。エンジンの音も聞こえず、リーパーが受けている風も感じられないので、計器類だけが頼りだった。

 

「一番最初に、調子が悪くなる可能性があるものは、全部確認したいね」とスペードは言っていた。

 

他のクルーが立ち去ると、GCSは静かだった。ドアが閉められ鍵がかけられた。最初の数分間、スペードとスパークルは攻撃計画をもう一度おさらいした。攻撃に望まれているポイントや、ミサイル発射時の着弾点について話し合った。攻撃を中止しなければならなくなった場合に、スパークルがミサイルを誘導する地点も再確認した。

 

「作戦中止になったら、即、レーザーを点けるのを忘れないようにしないとな」とスペードは言い、ドローンのヘルファイヤーミサイルを攻撃目標に誘導する収束光のことを気にした。

 

一連の作業は15分ほどかかった。そして、攻撃目標が現れるのを待つ態勢に入った。

 

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生活パターン

 

攻撃目標が住んでいる家はビスケットのような色をした平屋で、人の頭ほどの高さの塀と鉄の門があった。攻撃目標のバイクは壁にもたれて駐められていた。何も動きはなかった。スペードはリーパーをトラック状のパターンで飛行させ続けていた。スパークルは住居の監視を続け、十字線が建物に合うようカメラを調整し続けた。

 

スペードは言う。「すべてを調整して完全にしなければならないので、最初の8回だか10回の飛行はなかなかエキサイティングだね」

 

しかし、すぐに退屈になる。瞬きもせず攻撃目標に目を向け続けるのはRPAに特徴的な作戦行動だが、それはもっとも退屈な任務でもある。クルーは一軒の家を見続けながら何時間も過ごすことがある。

 

気をそらさないために、RPAのクルーは暇つぶしのゲームをするようになった。ラスベガスで一番のレストランはどこか議論したり、スポーツのスコアを見たり、スタッフの情報伝達を支援する安全なテキストメッセンジャープログラム、Microsoft Internet Relay Chatを使ってRPAビンゴをしたりする。

 

パイロットはカードを作り、ロバとか車とか、なにかをスクリーンで見つけるたびに、ビンゴの得点にするのよ」とスパークルは言う。

 

クルーは、敵戦士が林で小便をするのを数え切れないくらい見てきたし、セックスをするのを見ることもあるし、動物としているのを見ることすらある。ある計器操作官は、アフガニスタンの攻撃目標兵士が山羊と一時間も取っ組み合っているのを見たという。情報分析官も見ることができるよう、ぐっとズームインすることがよくある。

 

クルーは攻撃目標を2,3ヶ月追跡することも珍しくはない。監視を続けると、ターゲットに対して、他の戦闘パイロットや兵士は持つことがない親近感が芽生える。クルーはターゲットの家族を知るようになる。家族の行くモスク、子供の学校まで知っているのだ。

 

「ターゲットに対して親近感を持つことは理解できるわ」とスパークルは言う。「でも、それは間違っているし、ここでサポートしようとしている人々に対する裏切りになるわ。私たちはそこに行かないだけで、攻撃をしている。それには理由がある。彼らは我々の友軍に打撃を与えている勢力の一部と結託している。結局のところ、煎じ詰めれば、他のことはどうでも良いはずだわ」

 

話を住宅地に戻すと、スパークルとスペードは監視と待機を1時間以上続けた。シフト勤務が始まってから2時間経った頃、この地域ではよく見かけるだぼだぼのシャツとパンツを着てターゲットが遂にドアから出てきた。

 

「出てきたわ、」と、スクリーンの真ん中に映っている男に照準の十字線を合わせながらスパークルが言った。

 

スペードとスパークルは即座に男に照準を合わせ、興奮が走った。彼が小便をしようと壁沿いに立ち止まると、十字線は彼を捕まえた。用が済むと、彼は家の中に戻っていった。こうしたことが何時間かに渡り繰り返された後、彼はやっとバイクにまたがった。

 

ヘッドセットを装着する。不要な無線が切られた。部屋には誰も入れない。非常に静かだった。

 

「ヘッドセット装着したということはゲームの時間だということよ」とスパークルは言った。「戦闘準備完了」

 

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「戦闘準備完了」

 

ターゲットに十字線を合わせ続けるうちにスパークルの指がうずき始めた。それは、いよいよ攻撃という時になると常だった。最初の実戦攻撃では、アフガニスタンの15人の兵士一群に向けてレーザー誘導弾を打ち込もうという直前に不安から手が麻痺した。

 

「そのときこんな風に考えていたのを覚えている。この爆弾をこの悪漢たちにまさに落とそうとしているんだ」と、スパークルは語る。「ファイブ、シックス、テンとカウントすれば、別の一日が始まる。ヘルメットをかぶらなきゃ」

 

その隣で、スペードはリーパーの高度を保ち攻撃目標に向かっていた。ターゲットの男はバイクを動かし、住宅街を抜けて舗装されていない道路に出た。スパークルの十字の照準は彼から外れることはなかった。

 

スパークルが男を追跡する一方、スペードは自分の飛行路を確認し、頭の中で計算を始めた。今のスピードでは、彼を逃すだろう。他のクルーがミサイルを撃ち込もうとしている。そっちの見込みは良くて半々、こっちはまるでない。

 

「後退。」スペードはスパークルに伝え、、他のクルーに攻撃を任せた。

 

スパークルとスペードには、ミサイルを撃てなかったことを後悔している暇はなかった。最初の攻撃が失敗した場合にフォローをする準備をしなければならなかった。スパークルはバイクを追跡し続けた。

 

「他の連中が攻撃のタイミングを逃してくれれば、攻撃できるのにね」とスパークルは言った。

 

スペードは後退を済ませ、他のクルーの発射にあわせ、攻撃目標に向けて引き返し始めた。一組のヘルファイヤーミサイルがリーパーのレイルから発射され、バイクの正面に着弾し、ターゲットを破片と共に吹っ飛ばした。もう1台のリーパーは離脱し、その後にスペードが入った。スパークルは攻撃で生じた煙と破片に照準を合わせ続けた。戦果を評価するのが彼らの任務だった。そして、数千マイル彼方で命を奪ったことに対する気持ちと折り合いをつけることも、彼らの任務だった。

 

「人で一杯のトラックを撃てば、至る所に手足が散乱する」とスパークルは話した。「攻撃を受けた残骸の中から下半身を失った男が這い出してきたのを見たことがある。ゆっくり死んでいったわ。それを見なければならないの。目を背けることはできないわ。やさしいお嬢さんではこの仕事は勤まらないの。それじゃ悪夢にうなされることになるわ」

 

RPAの操縦者を苦しめるのは狙撃ではない。その後に起こることだ。他の戦闘パイロットと違い、RPAのパイロットと計器操作官は攻撃の後も近くをうろうろして、攻撃成功の確認とさらなる情報収集を行う。そのために、リーパーのセンサーポッドは地面にできた穴と吹き飛ばされた体を画面の中央に捉え続ける。

 

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スパークルは地面の至る所に熱源があることを認めたが、それは体の一部らしかった。ターゲットは死んだが、いつもこういう具合ではない。ヘルファイアーミサイルの爆発物は12ポンド(約5.4キログラム)しかないので、りゅう散弾によってターゲットが散らばった状態にあることを確認することが重要になる。

 

他のリーパーは給油と装備補充のため帰還する中、スペードはターゲットの上にとどまり、村人が燻っているバイクに駆け寄って来るのを監視する。すぐにトラックが到着し、吹き飛ばされたターゲットの体を集めるのをスペードとスパークルは見た。

 

「ただの死体よ」とスパークルは言う。「私は死んだ鹿に肘まで突っ込んだりしながら育ったのよ。やらなきゃならないことをやるだけ。あいつは死んだわ。後は埋葬されるのを監視するだけ」


米軍健康調査センターの2011年調査で明らかになったのは、RPAのクルーは「重度の任務によるストレス」を抱えているということだ。専門家は、長時間のシフト勤務と戦闘における暴力がストレスが高い理由だと考えている。

 

論文の共著者である疫学者、ジャン・リン・オットーは、ニューヨークタイムズにこう語っている。「遠隔操縦機のパイロットは地上の同じ場所を何日にもわたり見続けることがある。彼らは虐殺された死体を目にすることにもなる。有人機のパイロットには、そんなことは有り得ない。できるだけ早くその場から離脱するからだ」

 

現在、空軍は、心理学者、牧師、医師、カウンセラーからなるメンタルヘルス対応チームを持っており、パイロットや計器操作官を助けるために大型のRPA基地に配備している。しかし、スペードは自分は御世話になったことがないという。彼はいつも部隊で受けた最初の状況説明会の一つを思い出す。分析官は、タリバンアルカイダは自爆装置付きのベストを子供に着せると彼に教えた。彼は自分の子供に思いを寄せる。

 

「俺はまず第一に父親で、第二に空軍パイロットだ」とスペードは言う。「無実の子供に非道いことをしようというなら、俺は殺すことを躊躇わないね」

 

しかし、それは、彼らがモニターで何を見ても衝撃を受けないということではない。スペードは、タリバンの兵士が縄で縛られ目隠しをされた男たちを連れ出し、道の真ん中で処刑するのを見たことがある。彼にできることは何もなかった。スパークルは、アフガンの男が妻を中庭に引きずりだして殴るのを見て、涙をこぼしたことがあるという。砲撃してやりたかったが、そうはいかなかった。だから、引き金を引くチャンスがあれば躊躇わない。

 

スパークルは言う。「連中が女に対してどういう扱いをするのか、知っているわ。学校に行こうとするからと子供を撃つのなら、そいつが日の暮れる前に墓に埋められたって構うことないわ。うろたえたり泣くようなことではないわ。できるものなら、彼らも私を瞬く間もなく殺すでしょうからね」

 

可能であれば、ムスリムは死者を日の沈む前に埋めようとするので、葬儀の監視はRPAの重要な任務だとスペードは言う。

 

「もし、大勢の人が参列すれば、その地域には多くの支援者がいるということがわかる」

 

爆撃地点周辺を旋回しながら、スペードとスパークルは墓の近くに50人ほどの人がまっすぐ長く数列に並んでいるのを観察した。一列は15人くらいだった。観察には半時間程かかった。アフガン人がターゲットを埋葬すると、スパークルは動画転送が済んだことを確かめた。後で情報分析官がそれをチェックして、次のターゲットの手がかりとするのだ。

 

シフト勤務の終わりに、スペードとスパークルは作戦の報告を行った。攻撃のビデオをもう一度見た。どんなミスも議論し、修正を行う。自分で撃つことができなかったこと以外、スペードは作戦で起きたことすべてに満足だった。

 

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ドッグ・パーク

 

報告後、スパークルは朝食を出すバーで部隊の仲間の何人かと会い、軍人一杯無料のドリンクにありついた。

 

「ここに来ると、報われたと思えるのよ」と彼女は言った。

 

無料のブルームーンドラフトをやりながら、ソーセージ付きのベーコン・アンド・エッグを注文した。部隊の仲間は、攻撃や仕事のストレスについて話せる唯一の仲間だ。仕事で女性の友達を作るのが難しくなったとスパークルは言う。

 

彼女は言う。「自分が関わっている仕事は、他の人が送っている普通の生活と違う種類のものだから、世間にちょっと気後れがするのよ。子供がもっともっと欲しいとだけ思い、馬鹿げたリアリティーTVにのめり込んでいる女たちとつきあうのはしんどいと思うことが多いわ。国境の外では世界がどんなに大変か、将来子供がどんな危機を目にしなければならないか、そんなことは知らないものね。だから軽薄でけちなのよ。この仕事をしていると、世の中のけちでつまらないことに対して我慢できるようになるわ。世界の恐怖や宗教の過ちについて、目を開かされるから」

 

デートをするのも簡単ではない。バーの支配人や薬学校の生徒ともデートをしたが、世界が違いすぎた。

 

「すごく単純な仕事をしているだけのような男とつきあうとするでしょ、」と彼女は言う。「そいつらは、ああだ、こうだと、どうしようもなくつまらないことに文句を垂れるだけなのよ。男らしさというのはこういうものだという思い込みに縛られているだけ。自分の仕事や金を自慢したいだけなのよ。それだけのことなの。どれだけの重さのものを持ち上げられるかなんて、私はこれっぽっちも気にしないわよ。それをわかって欲しい」

 

彼女は同僚の計器操作官と結婚した。

 

「ああいう仕事をやっていくには、人の命を奪っても怪物ということにはならないってことを理解してくれる人といる方が良いのよ」

 

報告を終えると、スペードは1時間ほどドライブをしてリラックスする。このドライブが戦闘と日常生活を隔てているのだ。私道に入ると、太陽は昇っており、タイルの床で子供が車で遊ぶ音で家はにぎやかだ。ベッドに潜り込みながら、スペードは妻に忙しかった昨晩の話をする。何も特別なことはないが、夫の仕事は建物のまわりを飛んでいただけではないと知るだけで彼の妻には充分なのだ。夕食に起きてきたときに、彼はもっと話をするだろう。今、スペードはただ眠りたかった。

 

スペードはこう語る。「7000マイル彼方で戦闘していたら、多分、何もかも失っていたろうね。そりゃあ、仕事がうまくいって、この世から悪人が一人減ったら、すごく興奮もするさ。でも、それで個人的な生活を犠牲にしなければならないとしたら、悲しいことだよ」

 

スパークルが家に帰ると、公園に出かけたくてたまらない犬が待っていた。彼女と犬にとってそれは儀式のようなもので、ドッグ・パークの常連なのだ。他に誰も軍隊関係者がいないのが、スパークルは気に入っている。彼女はドッグ・パークでは「スパークル」ではないのだ。

 

「腰掛けて、犬が遊ぶのを見ているのは楽しいわ。動物の遊び場のためにたいそうなお金をかけられるこの世界を守るために頑張ろうという気持ちになるわ。ここで会う女の人たちは強くて自立しているわ。それに、犬のおかげで仕事以外の話題ができる。リラックスできる気軽な雰囲気があるのよ」

 

友達は、彼女がRPA部隊に所属していることは知っているが、戦場から7000マイル離れて戦争を遂行することと郊外の暮らしを両立させるのがどんなものか、想像もつかない。

 

友達が尋ねる。「今日も攻撃したの?」

 

彼女は答える。「していたとしても、言えないわ」

 

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アメリカン・スナイパー」もすごい話でしたが、このドローン・パイロットのルポでは、日常生活の中で仕事として戦争が行われていることが衝撃的です。ドローンによる攻撃の背後にはこうしてドローンを操縦している人がいるわけで、命を失うことはなくとも、メンタル的には非常にきつい仕事だと思います。テレビゲーム感覚で気楽にできるものではないことが良くわかります。

 

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外部と40年間隔絶し、第二次世界大戦も知らなかったロシアの家族

1978年、シベリアの自然調査をしていたソビエトの地質学者がタイガの森の中で6人の家族を発見した

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シベリアの夏は長く続かない。雪は5月まで残るし、再び9月中には寒さが戻り、タイガを凍らせ驚嘆すべき荒涼とした静寂の世界に変えてしまう。冬眠中の熊と飢えた狼が潜む、果てしなく続く不規則に育った松と樺の森。切り立った山々。谷を流れる急流に流れ込む白く泡立つ流れ。数多くの凍った湿原。この森林は、地球最後で最大の野生環境である。北はロシアの北極圏最先端から南はモンゴルまで、西はウラル地方から東は太平洋沿岸まで、この森林は続いている。500万平方マイル(約1300万平方キロメートル)の何もない土地に、わずかな町を除けば、たった数千人しか人間は住んでいない。

 

しかし、本当に暖かくなると、タイガには花が咲き、ほんの数ヶ月というものは訪れる者を歓迎しているかのようである。タイガはどんな探検隊も飲み込んでしまうので、飛行機から見るしかないが、この何もない秘境を一番はっきりとのぞき込むことができるのはこの時期である。シベリアにはロシアの石油と鉱物資源の大半があり、富を掘り出す作業が進められている辺境のキャンプを目指して、石油の試掘者と調査者は、この最果ての地を長年訪れてきた。

 

それは、1978年夏、タイガの森南部奥深くでのことだった。地質学者の一団を降ろすために安全な地点を探しに来ていたヘリコプターが、モンゴルとの国境から160キロメートルほどのところで森の地形を調べていた。危険な地形の中を逆巻く急流が流れるアバカン川の名も無い支流の辺りの、樹木が厚く生い茂った谷に立ち寄ったときのことだ。谷は狭く崖は切り立ち、ヘリコプターのローターが起こす気流で揺れている痩せこけた松や樺は密集しており、着陸地点は見つかりそうになかった。しかし、着陸地点を探そうと窓の外をじっと見つめていたパイロットは、そこにあるはずがないものを見た。その開けた土地は、山側に180メートルほど続き、松と唐松の間にくさびのように広がり、長く黒い畝のように見えるものがあった。困惑したヘリコプターの乗員は、それが人の住んでいる証拠だと半信半疑のうちに認めるまで、その上を何度も行き来しなければならなかった。開けた土地の規模や形状から見て、それは長いことそこにあったに違いなかった。

 

これは驚くべき発見だった。その山は最も近くの人が住んでいるところから240㎞以上離れており、いまだ探検もされたことがないところであった。ソビエト政府もこの地域に人が住んでいるという記録は持っていなかった。

 

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鉄鉱石を探査するためにこの地域に送り込まれた4人の科学者は、パイロットが見たものについて聞かされ、途方に暮れ悩んだ。作家のバジリー・ペスコフはタイガのこの地域について「見知らぬ人に出くわすのは、獣に出くわすよりも危険だ」と書いているが、16㎞ほど離れた仮設住居で待っているよりも、調査をおこなうことを科学者は選んだ。ガリーナ・ピスメンスカヤという地質学者に率いられ、彼らは「天気の良い日を選んで、友人となるかもしれない者達への手土産を荷物につめた」。しかし、念のために「小脇に拳銃があることを確かめた」と彼女は回想している。

 

パイロットに教えられた地点を目指して、山を登り分け入るにつれ、人の痕跡が目につき始めた。荒れた小道、棒切れ、小川にかかった丸木、そしてついに、切り刻まれた干し芋を入れた樺のコンテナが詰め込まれた小さな納屋が現れた。ピスメンスカヤは、そのときのことをこう述べている。

 

小川のそばに住居があった。年月と共に雨に打たれ黒ずんだあばら屋は、どの面にもタイガの樹木の滓のような樹皮や柱、厚板が積み上げられていた。バックパックのポケットくらいの大きさの窓がなかったら、そこに人が住んでいるとは信じられなかっただろう。しかし、間違いなく人が住んでいる・・・。予想したように、我々の訪問は気づかれていた。


小さなドアがきしむ音をたて、ひどく年取った男が、おとぎ話の中から抜け出してきたように、陽の光の中に姿を現した。男は裸足だった。ずた袋につぎはぎを重ねて作ったシャツを着ていた。やはりつぎはぎをした同じ素材のズボンを履き、髭は伸び放題だった。髪の毛もぼさぼさだった。驚いた様子で、こちらをじっと見ていた。なにか言わなければならなかったので、こう切り出した。「こんにちは、おじいさん!訪ねてまいりました!」
 
老人はすぐに返事をしなかった。そして、ようやく、穏やかさのなかに不安を覗かせたな声で言った。「まあ、こんな遠いところまでいらしたんだ、中に入るがよろしい」
 

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地質学者が小屋に入ると、目にした光景はまるで中世のもののようだった。手に入るものはなんでも使って作られた粗末な作りのその住居は、巣穴も同然だった。「すすで黒ずんだ低い丸太小屋は地下倉庫のように寒く」床はジャガイモの皮と松笠で覆われていた。薄明かりの中で見回すと、その小屋は部屋が一つだけだと分かった。窮屈でかび臭く、筆舌に尽くせない不潔さであり、たわんだ小梁で支えられていた。そして、驚くべきことに、そこは5人家族が住む家だった。
 
沈黙は突然すすり泣きと悲嘆する声で破られた。ようやく2人の女性の姿が目に入った。一人は狂乱して祈っていた。「これは我らの罪、我らの罪です。」もう一人は柱の背後に隠れたまま、ゆっくりと床に倒れ伏した。小窓からの光が彼女の恐怖で見開かれた瞳を照らしていた。ここをすぐに出なければいけないと思った。
 
ピスメンスカヤに率いられ、地質学者たちは急いで小屋を出て、小屋から数メートル離れた所まで引き下がり、持ってきた糧食を広げて食べ始めた。30分ほどすると、小屋のドアがきしみながら開き、老人と2人の娘が現れた。もう取り乱してはおらず、まだ怯えているのは明らかだが、興味を持ったようだった。奇妙な姿の3人は訪問者たちにおそるおそる近づいて腰を下ろしたが、差し出しされたジャムやお茶、パンには手をつけず、「それは受け取れません」と口ごもった。ピスメンスカヤが、「パンは食べたことがあるか」と尋ねると、老人は「わしはあるが、この子たちはない。見たこともない」と答えた。少なくとも彼には話が通じるようだった。娘たちの話す言葉は、孤絶した暮らしで歪んでいた。「姉妹同士の会話は、ゆっくりとしたはっきりしない鳩の鳴き声のようだった」
 

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訪問を重ねるうちに、家族の物語の全容が少しずつ明らかになった。老人の名はカープ・ライコフと言った。彼は古儀式派、つまり、17世紀以来続く様式を誇る、ロシア正教会原理主義派の信徒だった。古儀式派はピョートル1世の時代より迫害を受けてきた。ライコフはそれをまるで昨日の出来事のように語った。彼にとって、ピョートルは個人的な敵であり、「人の姿をした反キリスト」だった。彼の主張を裏付ける証拠は、ツァーがロシアの西洋化を進めるためにおこなった「キリスト教徒に対する髭刈り」運動がふんだんに示すとおりである。しかし、この彼の数世紀遅れの憎悪はもっと最近の悲劇とも混じり合っている。カープはこの話をしながら、1900年前後に430キロのジャガイモを古儀式派に贈ることを拒んだ商人についても不満を述べるのが常だった。
 
無神論者のボルシェビキが権力の座についたとき、ライコフの家族にとって事態はさらに悪化した。ソビエト政権下にあって、孤立した古儀式派の共同体は迫害を恐れてシベリアに逃れていたが、さらに人里離れた奥地へと後退を始めた。1930年代の迫害期間、キリスト教自体が攻撃対象になり、ライコフが膝をついて働いていた傍らで、ライコフの兄は共産党の警備隊に村のはずれで撃ち殺された。彼は家族をかき集めて森の中へ駆け込み、難を逃れた。

 

それは1936年のことで、その時ライコフの家族は、カープ、彼の妻アクリーナ、9歳の息子サビン、そしてたった2歳の娘ナタリアの4人だけだった。持ち物といくらかの種を持って、タイガのさらに奥深くへと身を隠し、この荒涼とした土地にたどりつき、あばら屋を建てたのだった。この未開の土地で、1940年にはドミトリー、1943年にはアガフィアと、さらに2人の子供が生まれたが、ライコフ家のこの下の子供たちは誰も家族以外の人間を見たことがなかった。アガフィアとドミトリーが外の世界について知っていることは、両親から聞いたことだけだった。ロシアのジャーナリスト、バジリー・ペスコフによれば、家族の主な娯楽は「家族に自分の夢を説明することだった」。
 
ライコフ家の子供たちは、人間が高い建物に群れ集まって住む都市と呼ばれるところがあるのを知っていた。ロシア以外の国があることも知っていた。しかし、その概念は彼らにとって抽象的なものでしかなかった。彼らの読み物といえば、祈祷書と古びた家庭用聖書だけだった。アクリーナは聖歌を題材に、ペンのように尖らせた樺の棒をインク代わりのスイカズラの果液に浸けて、子供たちに読み書きを教えた。アガフィアに馬の絵を見せると、母の聖書のおかげでそれと分かった。彼女は大声を上げた。「見て、パパ、駒だわ!」
 
この孤立した家族を理解することも困難だったが、暮らしの紛れもない厳しさは想像もできなかった。ライコフの家まで徒歩で行こうとすれば、アバカン川をボートで進んでも、大変な困難だった。最初のライコフ家訪問にあたり、この家族の記録責任者を自認するペトロフは、「人間の住居をただの一つも目にすることなく、250キロも移動したのだ」と記している。
 

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人から離れて未開地で生き抜くことは、不可能に近かった。自分たちの手に入るものだけに頼り、ライコフ家はタイガに持ってきたわずかなものの代用品を作ろうと苦闘した。靴の代わりに、白樺の皮を使って木靴を作った。衣服はボロボロになるまでつぎ当てを繰り返し、最後は種から育てた麻布を使った。
 
ライコフ一家は粗末な糸車、そして驚くべきことに機織りの道具をタイガに持ち込んでいた。未開の土地の奥へ、奥へと次第に少しずつ移動していく際にこうした道具を持ち運ぶのは、さぞかし時間もかかる骨の折れる旅であったに違いない。しかし、彼らには金属製のものを修理する技術がなかった。一組のやかんは長い間役に立ったが、それがついに錆び付いてだめになってしまうと、彼らが作れる代用品は白樺の皮を使ったものだけだった。それは火にかけることができず、料理をするのはますます難しくなった。ライコフ一家が発見されたとき、彼らの主食はライ麦の粉と麻の実を混ぜたジャガイモのパテだった。
 
ペスコフが明らかにしたように、ある面ではタイガにも豊かなものがある。「住処の脇を流れる澄んだ冷たい小川。誰でも自由に使えるカラマツ、トウヒ、松、樺の木立。コケモモやラズベリーは手を伸ばせばそこにあるし、薪もそうだ。松の実も屋根に落ちてくる」
 
しかし、ライコフ一家は常に飢餓の一歩手前で生きていた。ドミトリーが成人に達した1950年代になり、ようやく肉と皮を手に入れるために獣を罠で捕まえることが出来るようになった。銃も弓もなかったので、狩りをするには穴を掘って罠を仕掛けるか、獲物が疲れ果てて倒れるまで山の中で追いかけるしかなかった。ドミトリーは驚嘆すべき忍耐力を磨き上げたので、冬でも裸足で狩りができ、時には、零下40度の屋外で眠りながら狩りをし、数日後に、若いヘラジカを肩に背負って小屋に戻ってくることもあった。しかし、肉が手に入らないのはいつものことで、彼らの食料は次第にいっそう単調になっていった。野生動物が作付けしたニンジンを食い荒らし、1950年代後半は「飢えた日々」だったとアガフィアは回想した。「ナナカマドの実も食べました」と彼女は言う。

 

根、草、キノコ、ジャガイモの葉、樹皮。私たちはいつも空腹でした。来年のための種を残すか、全部食べてしまうか、毎年家族会議を開いていました。
 
こうした状況では飢餓は常に目の前にある危機だったが、1961年には6月に雪が降った。厳しい寒気で庭に植えていたものは全てやられてしまい、春には靴や木の皮を食べることを余儀なくされた。アクリーナは子供たちに食べさせることを選び、その年餓死した。残された家族は、彼らが奇跡と信じる出来事によって救われた。一粒のライ麦が豆畑で芽を出したのだ。ライコフ家はその芽のまわりに柵を立てて、ネズミやリスから昼夜を問わず必死になって守った。収穫の時期がやってくると、そのたった一本の穂には18の実がついた。そこから苦労を重ねて彼らはライ麦畑を再建したのだった。
 

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ソ連の地質学者たちはライコフ家の人々を良く知るようになると、彼らの能力や知性を見くびっていたことに気がついた。家族は一人一人とても個性的だった。老父カープは科学者たちがキャンプから持ってくる最新のものにはたいてい目を輝かせた。人間が月に着陸したことを断固として信じようとはしなかったが、人工衛星というアイディアはすぐに受け入れた。ライコフ家の人々は1950年代から、「星々が空を早く横切り始めた」時に人工衛星に気がついており、カープ自身このことを説明する考えをもっていた。「人々はなにか空に上がるものを考え出し、星に良く似た火の玉を送り出しているのだろう」と彼は考えていた。
 
「何よりも彼が驚いたのは透明なセロファンのパッケージだった」とペスコフは書いている。「おお、なんてものを考え出したんだ。これはガラスだ。でも、くしゃくしゃになるじゃないか。」カープは家長として厳格だったが、優に80歳を超えていた。一番上の息子、サビンは、揺らぐことのない宗教的調停者の役割を家族の中で自分に割り振ることで対処していた。彼の父カープも「彼は信仰が厚いが、厳しい男だ」と言っていたが、自分が死んだ後サビンが家族を治めるようになったらどうなるかと心配していたようだった。実際、長男は、料理や針仕事、看護で母の代わりを常に務めていたナタリアから多少の抵抗を受けることになった。
 

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一方、下の二人の子供はもっと取っつきやすく、変化や新しいものに対しても進歩的だった。「アガフィアには狂信的なところはあまり見当たらなかった」とペスコフは述べているし、このライコフ家の一番下の子供にはアイロニーのセンスがあり、自分をネタにふざけることもあることがわかってきた。歌うように話し、単純な言葉を他音節語に引き延ばして話すという、アガフィアの普通ではない話し方を聞いて、彼女は知恵遅れなのだと思い込む訪問客もいた。しかし、実際は彼女はきわめて知的で、カレンダーのない家で日付を守るという難しい仕事をこなしていた。彼女はこれもきつい仕事だとは思っていなかったが、晩秋になると貯蔵のために新しい穴を手で掘り、日が暮れても月明かりで穴を掘り続けた。真っ暗になって誰もいないところに一人でいるのは怖くないのかと驚いたペトロフが尋ねると、彼女は「ここで何が襲ってくるというの?」と答えたという。

 

しかし、ライコフ家の中でも地質学者に人気があったのは、タイガの機微を知り尽くした熟練の野外生活者であるドミトリーだった。家族の中でも一番好奇心が強く、おそらくもっとも前向きだった。家族のストーブも、食料を保存するためのアメリカシラカンバのバケツも、彼が作った。一家総出で倒した木を手裁ちし、木材にするために何日も働くのも彼だった。科学者たちの技術に一番夢中になったのが彼だったのも不思議はない。ライコフ家が打ち解けて下流にあるソビエトのキャンプへの招待を受けるようになると、ドミトリーは丸鋸と木摺が材木を仕上げる早さに驚嘆し、キャンプの小さな製材所で楽しい時間を長いこと過ごした。ペトロフはこう書いている。「彼が虜になったのも無理はない。ドミトリーが板にするのに1日、2日かかる材木が、彼の目の前で見事な薄板にあっという間に加工されるのだ。彼はその薄板に触れ、『素晴らしい』と感嘆した」
 

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カープ・ライコフは、こうした現代の産物を受け入れまいと長いこと戦い続けたが無駄だった。地質学者と知り合ったときには、一家はたった一つの贈り物しか受け取らなかった。塩である。(それなしに数十年を生きるのは「まさしく拷問」だったと、カープは言っている。)しかし、次第に一家は多くのものを受け取るようになった。地質学者の中でも特別な友人となった、エロフェイ・セドフという名の採掘技師が手を貸してくれることを一家は歓迎した。セドフは手の空いた時に、一家が作物の種まきや収穫をするのを手伝った。ナイフ、フォーク、籠、穀物、そしてついには紙とペン、懐中電灯まで一家は受け取った。こうした新しいものは渋々受け入れられることがほとんどだったが、地質学者のキャンプで出会った罪深いテレビは彼らにとっても抗いがたいものだった……。

 

たまにキャンプにやってくると、必ず座り込んで画面に見入った。カープはテレビ画面のすぐ前に陣取った。アガフィアは扉の後ろに隠れて、顔だけ覗かせてテレビを見た。そして、ただちに祈りをささやき、十字を切り、自分の犯した罪を払おうとするのだった……。その後で、カープも心を込めて一息に祈りを唱えた。
 
ライコフ一家の奇妙な物語の中でおそらく最も悲劇的なのは、外の世界と関係を再び築くと、すぐさま家族が亡くなったことだ。1981年の秋、4人の子供のうち3人が数日のうちに一人、また一人と母の後を追い墓に入ることになった。ペスコフによれば、そう憶測する人もいるだろうが、免疫を持たない病気に罹ったからではない。サビンとナタリアは、おそらく過酷な食事状態による腎臓疾患だった。しかし、ドミトリーが肺炎で亡くなったのは、新しい友人からうつされた感染病に起因していたかもしれない。
 
彼を救おうと絶望的な努力をした地質学者たちは、ドミトリーの死に動揺した。彼らはヘリコプターを呼んで病院に連れて行こうと申し出た。しかし、ドミトリーは今際の際になっても、生涯を通して行ってきた信仰からも、家族からも、離れようとはしなかった。死の直前にはこうつぶやいた。「それは許されない。人間は、神が認められたとおりに生きるものなのだ」
 
ライコフ家の3人全員の埋葬が済んだとき、地質学者はカープとアガフィアに、森を離れ、粛正期間の迫害を生き延びて同じ元の村で暮らしている親戚の所に戻ってはどうか、と話を持ちかけてみた。しかし、生き残った二人は耳を傾けなかった。そして、古い小屋を改修し、元の古い家の近くに留まった。
 

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カープ・ライコフは、彼の妻アクリーナの命日から27年後の1988年2月16日、就寝中に息を引き取った。アガフィアは地質学者の手を借りて父を山腹に埋葬し、踵を返し、自分の家へ帰っていった。神の思し召し通り、ここに残るだろうと彼女は言ったが、実際そうなった。その後四半世紀が経ち、70代になったが、このタイガの娘はたった一人でアバカン川の上流で生き続けている。
 
彼女がそこを去ることはないだろう。しかし、カープの葬儀の日にエロフェイが目にしたように、私たちも彼女に別れを告げなければならない。
 
私は振り返りアガフィアに手を振った。彼女は、川の流れの曲がり角に銅像のように立っていた。彼女は泣いてはいなかった。頷いて、「さあ、お行きなさい、お行きなさい」と言っていた。1キロばかり進んだところで、私は振り返った。彼女はまだそこに立っていた。

 

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絶句する話です。ちょうど「バックトゥザフューチャー」でやってくる未来の日ですが、まさに40年前の過去からやってきたような状態だったのでしょう。

 

なんとも壮絶な話なのですが、それでも心を惹かれるのは何故でしょうか。政治と宗教的自由、時代の変化、自然の中の暮らしと物質文明、家族の在り方など、色々な見方ができるでしょう。いずれにせよ、それは、人間にとって一番大切なものはなにか?という根本的な問いかけにつながるものだから、この話が多くの人の心に訴えるのだと思います。

 


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LOST IN THE TAIGA

「プレイボーイ」ビジネスの終焉:ポルノが脳に及ぼす5つの影響

世界一有名なウサギとのお別れ

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プレイボーイ誌は昨日、10月12日に誌面の刷新をおこなったと発表した。その中でも衝撃だったのは、今後誌面をヌードの女性が飾ることはないということだった。(プレイボーイ誌を手に取るのは、結局、当然のことながら、それだけが目当てではなかったか?)

 

ジョージア州アトランタのエモリー大学の心理学者キム・ウォーレンは、電子メールによるインタビューでこう答えている。「プレイボーイの大きな成功は、雑誌の優れた小説、興味深い記事、革新的なインタビューの中に性的な画像をお墨付きのものとして位置づけたことだった。しばしば優れた記事が掲載されたが、女性のヌードなしでは、プレイボーイは売れなかっただろう。大半の男たちはそれが目当てで買っていたのだからね」

 

だが結局、読者をつなぎ止めるには、ヌード写真でも不十分だった。プレイボーイ誌が最初に大衆の耳目を集めたのは1953年にマリリン・モンローのヌードショットを掲載したときだったが、インターネット上のポルノが勃興したこともあり、このところ読者を失っていた。今では、ボタンをクリックするだけで、猟奇的なものからあけすけで奇妙なものまで、性的嗜好の多種多様な選択肢があっという間に手に入るのだから不思議ではない。

 

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かつては男性誌の読者を集客する力を発揮したが、ポルノの持つ力はそれだけではない。人々に様々な面で確かに影響を与えているだろう。科学者もポルノが与える影響を完全には理解していないものの、驚くべき、そして、憂鬱にさせられそうな影響を明らかにした研究もいくつかある。脳の収縮から人間関係の放棄に至るまで、ポルノグラフィーが脳に与える5つの影響について以下に紹介しよう。

 

際限なき根源的な欲求 

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飲食や睡眠と同様、セックスは人間の最も根源的な欲求の一つである。つまり、大脳辺縁系という、恐れや怒りといった基本的な感情もコントロールしている人間古来の脳の一部を活性化するのだ、とポルノの影響を研究してきたマサチューセッツ州ボストンの民間臨床法医学心理学者ジョセフ・J・プラウドは言う。

 

性的イメージを見ると、ドーパミンが脳のこの領域に流れ込み、強い快楽の感情を引き起こす。そのうちに、こうした直接的なイメージ(強化因子と呼ばれる)を快楽と結びつけるようになる。こうしたイメージと結びついたものならなんでも、たとえプレイボーイのトレードマークであるウサギであっても、人々の衝動に火をつけることができるようになる。

 

しかし、プレイボーイ誌であれ、その他の興奮を催すイメージであれ、その快楽の反応が何度も繰り返されると、同じ快楽を得るためにはさらに強い刺激が必要になるという。

 

「イメージを見れば見るほど、性描写があからさまであればあるほど、さらに一層強い刺激が必要になるでしょう」とプラウドは言う。

 

信じがたいほどの脳の収縮

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ポルノは文字通り脳を収縮させるかもしれないという研究が2014年にアメリカ精神学会誌に発表された。ポルノを定期的に鑑賞する男性は、そうでない男性と比べて、脳の容積が小さく、大脳報酬系と結びついた部位である基底核線条体の結合が少ないのだ。

 

しかし、ポルノ画像を見ることに慣れたからこの脳領域が収縮し、その結果報酬が少なくなったと考えることもできると、以前に研究者は語っていた。

 

さらに、この脳の領域は、鬱病患者やアルコール中毒患者の場合にも小さいことが認められるし、こうした人々は人間関係や多忙な暮らしを避ける傾向がある。だから、鬱を抱えた人ほどポルノグラフィーを見るのであって、ポルノが本当に脳を収縮させるのではないということかもしれないと研究者は推測している。

 

視覚の遮断

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ポルノを見ると脳の視覚情報を処理する部位の機能が低下するという論文が、2012年の性医学学会誌に掲載されている。どうしてそうなるのか、理由は明らかではないが、視覚野から活動が活発になり必要に迫られる部位に、脳が血流を集中させようとするからではないか、と研究者は推察している。

 

この発見は辻褄が合うと研究者は考えている。ポルノを見ている人は、画像の背景の細部よりも、画像の性的な部分に集中しているからだ。つまり、危険を見張るために水平線を見ているときに性的に興奮することはない。

 

逆に言えば、性的に興奮するには安心が必要で、危険を見張る必要がない状態でなければならないと研究者は述べている。

 

短期志向

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性研究学会誌に9月に発表された論文によれば、ポルノを見る人は、満足するために時間のかかることよりも即座に満足を得られるものに惹かれるということである。

 

好物の飲食を控えている人と比べて、ポルノを3週間絶たされている人は、見返りを得るために待てる「遅延割引」率が低くなる。(「遅延割引」とは、受け取るまでに長い時間がかかると、報酬の価値が低くなるということである)

 

つまり、ポルノを見なければ人間はもっと長期志向になれるということが発見されたのだ。

 

本当に問題か?

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ポルノは人間関係を破壊する不健康な中毒なのか、それとも、男女が共に楽しむことができる健康的な性的はけ口なのか?この問に対する答で、ポルノに毒されるかどうかが決まるかもしれない。中毒行動心理学学会誌9月号の研究によれば、ポルノの利用頻度自体よりも「ポルノ中毒」 の自覚があるかどうかということが、心理的な苦痛に強く関わっているということだ。

 

ポルノが女嫌いを助長するという考えに反して、ポルノを見ない男性よりもポルノを見る男性の方が男女平等なものの見方をする傾向がある。ポルノ愛好家は、強い女性、働く女性、堕胎経験のある女性に対して、他の男性よりも好意的であると、性研究学会誌8月号の研究は指摘している。

 

確かにそうかもしれないが、ポルノ愛好家と結ばれている女性はポルノを見ない男性と結ばれている女性に比べて、幸福度が低いという研究結果もまた、2012年の「性の役割」誌には掲載されている。

 

科学者はポルノが脳に及ぼす影響について研究を始めているが、まだ分からないことは多く、特に若者に対するポルノの長期的影響については不明だとプラウドは述べている。

 

プラウドはこう述べている。「我々のまわりには、莫大な量の非常に過激なポルノグラフィーが溢れているが、その影響がどんなものかは分からない。それは、将来、非常に重要な意味を持つことになるだろう」

 

日本の「プレイボーイ」はどうするんでしょうね。まあ、グラビアヌードをやめても、それが理由で売上げが上がるということはないだろうと思います。

こうして考えてみると、ポルノを愛好するのは多分人間だけでしょうし、実験もやりやすいでしょうから、脳科学の研究にとっては良い題材なのかもしれません。ただ、どういう結論が出ても、くすりとさせられることになるので、学問的体面を守るのが一苦労かもしれません。読んでいると、どうしても扮装をしたタモリが頭に浮かんでしまいます。