ONEDOG:壁打翻訳手習帳

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自由の女神像はイスラム教徒の女性だった

「新しい巨像」はエジプトが起源

建国以来アメリカでは移民に関する議論が続いてきた。自由の女神像は移民を強く連想させるシンボルとして、安全と機会を求める人々に門戸を開き迎え入れるべきだという議論の引き合いに出されることが多い。ここで紹介するのは自由の女神についてあまり知られていない事実だが、現在のイスラム世界からの移民についての議論に一石を投じるものだ。最近の記事にもあったように、この像自体は元々、産業化時代におけるロードス島の巨像たるべくエジプトの農婦を表したものなのである。

 

この像のアラブのルーツよりもフランスのルーツに親しんでいる人にとっては驚きかもしれない。この像の構造はあのアレクサンドル・ギュスタブ・エッフェルにより設計され、フランス革命期に築かれた二国間の友好を祝福する100周年の贈り物として、フランスからアメリカに自由の女神は贈られた。

 

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女神像の設計者フレデリク・オーガスト・バルトルディもフランス人だったが、着想を求めたのは全く別の地、エジプトだった。1855年に彼はアブ・シンベルのヌビア遺跡を訪れたが、そこでは墓は巨像によって守られていた。バルトルディは古代建築に魅せられ、米国国立公園局が言うところの「大規模な公共建築と巨像構造に対する情熱」を育んだ。そして、彼はスエズ運河開通式の提案にその情熱を注ぎ込むことになる。

 

バルトルディが思い描いたのは、スエズ運河の北端であるエジプトの都市ポートサイドにそびえ立ち、エジプトを象徴するロープを纏った巨大女性像のモニュメントだった。自由の女神について何冊かの著書を持つバリー・モレノによれば、バルトルディはこの像のための準備として巨人像のような芸術を研究し、運河を望んで立つリベルタスと名付けた像のコンセプトを磨いたという。モレノは、「ベールをした農婦の姿をとり、この像は高さ26mにも達し、その台座の高さは15mに及ぼうというものだった」と書いている。自由の女神の前身となるこの像は「アジアを照らすエジプトの女神」と呼ばれていた。

 

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自由の女神の正式名称は「世界を照らす自由(Liberty Enlightening the World)」なので、確かにこの案が出発点になっているのでしょう。テロを恐れてシリアからの難民に二の足を踏むアメリカの象徴の原型がイスラム世界にあったというのは皮肉ですが、この像については色々な説もあるようですし、フランスのフリーメイソンから新大陸のフリーメイソンに贈られたものだそうですから、まあ、何とも言えないような話は色々ありそうです。

 

まあ、そういうことを言えば、牛久大仏のルーツはインドだとかいっているようなものかもしれませんが。でも、自由の女神は高さ40mで、牛久大仏は高さ100mなんですね。自由の女神が小さいというよりも、牛久大仏が無駄に大きいとしか思いませんがw。

 

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